noveで企画

アプリnovelnove交流による企画。

プロット交換小説作品②

「雨、雨、のち晴れ」

ミズイロ

お借りしたプロット「E」

 

 男の身体のすぐ横を、車が追い抜いていく。
 速度をあげなければ、と男は思う。
 その意思に応えるように身体は動き、男は車や人を追い抜いて走る。
 やがて小雨が男の頬を打つが、足を止めることはできない。
 走り続けなければならない、という考えだけが、男の頭を支配していた。
 男のことを気にかけるものは何一つなく、そのことがより男を走りに駆り立てていく。
 そのせいで、正面からの自転車に気がつくのが遅れた。
 互いの驚いた視線が交錯し、男は自分の走りがここで中断されるのだということを直感した。

 傘マーク、傘マーク、傘マーク、傘マーク。
 スマートフォンの天気予報アプリには同じアイコンばかりが並ぶ。
 何度見てもその組み合わせは変わらず、チサトは小さく溜息をついた。
「もう梅雨入りしちゃうのか」
 ここ最近、仕事が立て込んでいて春物の衣服の整理がまだできていない。本当は梅雨に入る前にクリーニングに出しておきたかったのだがそれも無理そうだ。
 雨の季節になる前に傘も新調したかったし、レインシューズも欲しかったのだが何年も買いそびれている。おかげでチサトは梅雨の間に靴を決まって一足駄目にする。
「部屋干し用洗剤使ってもなーんか嫌な臭いは消えないしなあ」
 部屋のドアを開け、買い物袋をおろした。途端にキッチンが狭くなったように感じる。
 夜十時を過ぎて帰宅すると、夕食をつくるのは面倒なので、大抵出来合いのものを買ってきてすます。
 食卓にパッケージを並べていると、チェストの上の写真立てが目に入った。
 天気だけが憂鬱の原因ではないことは、チサトにもわかっていた。
 職場でその日発令された辞令は、チサトの恋人を海外から呼び戻すものだった。三年ぶりの帰国だ。二人の関係を知っている同僚は口々に祝福をしてくれた。しかし、そこにこめられた「結婚」という期待には、チサトは応えられる気がしなかった。
 恋人との間に大きな問題があったわけではない。しかし何しろ、離れている期間が長すぎた。恋人と再会して、どのように接すればいいのか、海外で恋人が変わってしまってはいないか、漠然とした不安が渦巻いているのだ。
 チサトは写真立てを手に取り、そこに映る恋人の姿を見つめる。自分の恋人はこんな顔をしていただろうかと、わからなくなってもう一度溜息をついた。
 考えるのはやめよう。恋人が帰国するまでにはまだ数週間かかる。それまでに気持ちの整理をつければいい。問題の先送りだとはわかっていたが、他にできることはないように思えた。

 救急車のサイレンが聞こえる。
 そう思って顔をあげるが、それは近づくことも遠ざかることもなく、男の頭の中だけに響いている音なのだとわかる。あれから幾度となく聞く幻聴だ。
 同時に、フラッシュバックのようにあの時の光景が男の脳裏をよぎる。
 運転者とともにアスファルトに打ち付けられる自転車。
 男も、道路上を転げるようにして倒れた。
 集まってくる人だかり、近づいてくるサイレンの音。赤い光。濡れたアスファルトに反射して赤く光る世界。運ばれてゆく。自転車に乗っていた若い男が運ばれてゆく。動かない。動けない。
 やがて人々がはけていくにつれ、雨は本降りとなり、誰もいない道路に取り残された男はようやく起き上がった。
 
 自分はどこに向かっていたのだったか。
 なぜ、走っていたのだ?

 考えなくてはならない気がしたが、上手くいかないままにいつの間にか住宅地に迷い込んでいた。
 住宅地はきちんと区画整理がなされているように見えて、その実無秩序に太い道と細い道が入り組んでいて、正しいルートを辿らない限り脱出することができない。それなのに抜け出すルートはわからず、それどころか全身がぎしぎしと雨で錆びついたようにきしみ、足を動かすことすらできなくなっていた。
 同じ道を何度目かに通った時、がくんと男の膝が折れ、ついにその場にうずくまってしまった。
 目を閉じれば、同じ光景が鮮明に、しかし途切れ途切れにループする。
 連続再生される映像を断ち切ったのは、女の声だった。
「あの、大丈夫ですか?」
 肩に触れられ、反射的にそれをはねのける。
 見れば、青い水玉模様の傘をさした女が、はねのけられた手を胸の前に抱えこちらをうかがっている。
「具合とか、悪いんでしたら、あの、救急車よびましょうか?」
 傘も持たず、濡れ鼠の態で道端に座り込む、いかにも怪しい男をこの女は心配しているのだ。
「……いえ、大丈夫です」
「でも、とても大丈夫そうには見えませんけど」
「少し、休みたいだけですから」
 かまわないでくれ、と言うように男は再び目を閉じてしまう。
 しかし女は立ち去らなかった。再び女の声が降る。
「ここ、私のマンションなんです。せめて、中で休んでいきませんか」

 ベッドを勧めると男は一度はためらったものの、意外と素直に横になり、あっという間に寝入ってしまった。
 まだ少し、髪の毛が濡れている。身体を拭き、着替えはさせたが、「これ以上濡れる必要はありませんので」とシャワーを使うのは固辞した。
 はじめの印象では、チサトと同年代くらいかと思ったが、寝顔からはその年齢が読み取りにくい。目にかかる長めの前髪と、シャープな顎のラインがなんだかアンバランスだった。
 ただの住宅地の道端に、旅行者のようにも見えない軽装なこの男がなぜ倒れていたのか、チサトには見当もつかない。何か普通ではない雰囲気が目の前の男にはあった。その普通でなさがかえってチサトの警戒心を解いたのかもしれない。
 雨はいよいよ勢いを増してきたようで、窓ガラスに雨粒のあたる音がリズミカルに響いている。この部屋は南に面して大きな窓があり、それがこの部屋に住むことにした決め手でもあった。生活する分には非常に快適なのだが、窓が大きい分雨が降るとすぐに汚れてしまうのが難点だった。
 チサトは窓辺によるとそっとレースカーテンをひいた。

 男は翌朝遅くにようやく目を覚ました。
「今日が休みでよかった。具合はどうですか?」
 チサトは二人分のミネラルウォーターをやかんに注いで火にかけた。
 男はまだぼんやりとした様子でベッドに腰掛けている。
「私は相原チサトといいます。あなたのお名前は?」
「……名前は言いたくないんです。すみません」
「どちらからいらしたんですか?」
「……え?」
「もしかして旅行でもされていたのかと思って」
「確かに、ずっと旅をしていました。南の方から、ずっと」
 ずっと、走ってきた。南から来たことは確かなはずなのに、どこから来たのかなど考えたこともなかった。南から。それは何より確かなことだ。目的地がわからなくなって、今こうしてチサトという女の部屋にいる。
 男は自分の指先に目を落とす。それはすっかり乾いて、もとの皺のないなめらかな皮膚にもどっていた。
「雨が弱まるまで、休んでいかれるといいですよ。私は構いませんから」
 チサトはやかんからカップに湯を注ぐと、熱い紅茶とトーストを男の前に運んだ。
 男はトーストとチサトを交互に二回は見てから、トーストを手に取った。温かい香りと風味が男の鼻をくすぐる。頭が痺れるような心地よさを感じたが、同時に自分とはそぐわない何かであるようにも思えた。ただ、その違和感について考えることはできず、目の前の心地よい食べ物を夢中で口に運んだ。
 その日、チサトは男にそれ以上のことを尋ねなかった。ただゆったりとソファに座り、本を読んでいたし、男にも好きに過ごさせた。

 どちらから何かを言い出したわけではなかったが、男はすっかりチサトの部屋に居ついてしまった。
 それは奇妙な共同生活だったかもしれない。
 チサトは男と一緒に朝食を取った後、男を部屋に残して出勤する。仕事を終え帰宅すれば、部屋で大人しく男が待っている。
 チサトが出かけている間、男が何をしているかチサトは知らない。ただ、時折傘も持たずに外へ出ているようで、男が濡れた身体で待っていることがあった。そんな時、バスタオルで男の身体を拭きながら、
「傘あるのに使わなかったの?」と聞けば、「自分は濡れても平気なんです」と笑うのだった。
 
 チサトの帰宅を男が玄関で迎え、「今ごはん用意するね」「何か手伝います」といったやり取りが当たり前になった頃、チサトが暗い顔で帰宅した。
「ただいま。ちょっと遅くなっちゃったね。お腹すいたでしょう?」
 いつも通り食卓の用意をして、テーブルにつくと、チサトは普段は見ないテレビをつけた。言葉少なな食卓の気まずさを、テレビから流れる極彩色の音が埋める。
「どうかしましたか?」
 食事が終わった頃を見計らって男は尋ねた。
 そう聞かれることを想定していたのだろう、チサトは少し笑って視線を落とす。空になった茶碗を両手で包み込みようにしてさすっている。
「海外勤務中の彼氏から連絡があったの」
「それは……あの写真の人ですね?」
「知ってたの?」
「まあ、これだけこの部屋で過ごしてますから」
「そうだよね……。彼が本当は今週中に帰国するはずだったんだけど、この雨でしょう? 台風も近づいてるし、延期して梅雨が過ぎてからの帰国になりそうだ、って」
 本当のところ、帰国が延期になって残念なのか、まだ先だと思っていた帰国がいよいよ現実味を帯びてきたことが憂鬱なのか、チサトにも判断がつきかねていた。だが、男がそんなチサトの複雑な胸中を知るはずもなく、恋人と会える日が遠くなってしまったために沈んでいたのだと納得した。
 テレビ番組はいつの間にか極彩色の字幕の垂れ流しを終え、天気予報に変わっていた。
 傘マークが並ぶ週間予報。
 天気が雨であることを表すのに、なぜ雨のイラストではなく傘のイラストを使うのだろう。傘を使う習慣のない男は、全国的に雨が続くことを楽しそうに告げるアナウンサーの声を聞きながら、なんとなくそんなことを考えていた。
 そういえば、とチサトが声のトーンを明るくする。
「あなたがうちの前で倒れてた日、あの頃からずっと雨なの。おかげで洗濯物たまってしょうがなくて」
 話題を変えようとしているのだ。チサトに気を使わせてしまったかと、男は無神経な質問をしたことを少し後悔した。
「まるであなたが梅雨を連れてきたみたいだったのよ」
「え」
「あなたってとんでもない雨男なんじゃない?」
 チサトはひとりくすくすと笑いながら食器を持って台所に入っていった。

 ひどく身体が強張っていた。
 血液が水銀にでもなったのではないかと思うほど、全身が重く、呼吸も上手くいかなかった。
 やっとの思いで、男は両手で身体を包むようにさする。なぜだか急に、自分の実体を確かめたくなった。
 チサトは今、なんと言った?
 自分が連れてきた? 何を? 何が続いているって?
 錆びついた螺子が無理やり回されていく。
 その日、急に具合の悪くなった男を心配したチサトに促され、早くに布団に入ったが、寝付けるはずもなかった。

 深夜、チサトが深く寝入った頃、男は身体を起こした。
 住宅地である故か、この時間には車も走らないため、雨の音だけがよく響いている。その音色から察するに、雨粒は相当に大きい。静けさが一層、きしむような男の痛みを際立たせていた。
 ぎりぎりと螺子が回されるような痛みだった。螺子で留められているのは、厚い蓋だ。いつの間にかぶせられたのかもわからない。ただ、それが今はがされようとしていた。
 あまりの静けさに耐えきれず、のろのろとテレビをつける。チサトを起こさないよう、音量は絞った。
 チャンネルを回していると、青い画面が映った。日本列島上の天気図だった。
 白い渦とともに、線や記号がぐるぐると画面上を動いている。
『……梅雨前線は、……から……地方へと北上し、……停滞を続けています……。太平洋沖の台風……は……を刺激し……今後しばらくは……に注意が必要です……」
 画面上のぐるぐるは、巻き戻され、また同じようにぐるぐると移動する。何度も何度も巻き戻されて、再生する。
 壊れたように同じ動きを再生する画面を眺めているうち、不思議なことにぎりぎりとした痛みはひき、気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。
 進路に迷うように繰り返しうごめいている梅雨前線は、男自身だった。
 ずっと走ってきたではないか。日本列島上を移動する記号のルートは、まさに男がこれまで走ってきたルートそのものだった。
 いまや螺子の錆は取れ、くるくると外されていった。
 自分のいるべき場所はここではないのだ。自分はどこであろうと留まるわけにはいかなかったのに。
 いくつもの螺子が、ぽろん、ぽろんと転がっていく。
 走る目的がわからなくなって、考えることもやめてしまった。
 すべての螺子が外されてみると、そこにあると思っていた蓋はすでになく、霞のように消え去っていた。
 チサトに甘え、幻想の蓋を作り上げていただけだった。
 走る目的は、テレビ画面の中に示されているように思えた。

 進むべき道はひとつしかなかった。
 部屋を出る前、チェストの上に伏せられた写真立てを手に取る。
 そこには、にこやかに笑うチサトと恋人の姿があった。
 男は写真を丁寧に立てると、玄関のドアを開けた。

 男は再び走り始める。
 なにも考えなくても、足が正しい進路を選びとっているのがわかった。
 意思とは関係なく、どんどん速度があがっていく。
 空を仰ぎ、両手をいっぱいに広げてみる。体のあらゆるところで雨粒を受け止められるように。

 明け方、チサトはふと目を覚ました。部屋の明るさで、起床時間にはまだだいぶ早いことがわかる。
 時間を確かめようと布団の中で身体をひねり、男がいないことに気がついた。
 男の布団と、貸していた着替え一式が綺麗に畳まれて置いてあった。
 いつもと違う作法。それが何を示しているか、チサトは直感的に理解した。
 恋人の話をした以上、いや、そうでなくてもずっとこのままでいられるはずがないことはとうに承知していた。少しだけ留まればいいと男に提案したものの、それがいつまでなのか、チサトは積極的には尋ねなかった。男のことはなにひとつ知らず、それでいいと思っていた。
 気がつけば、チサトはスウェットのままで部屋を飛び出していた。
 どこを探せばいいのかもわからない。マンションの前で左右を見回すが、当然人影などなかった。
 雨が降っていることに気づいたが、構っている余裕はなかった。大粒に降り注ぐ雨だった。厚い雲ながらも、それがものすごい速度で流れていくのが見てとれた。チサトはなんとなく、雲の流れる方へ向かった。
 チサトは自分でもわけがわからないほど、ひたすらにどこかを目指して走っていた。この広い町で、探したところで男が見つかるとは思えない。それなのに、足が向かう方角に男がいるという確信を持っていた。
 髪が頬に張り付き、スウェットにもスニーカーの中にもすっかり水がしみこんでいた。
 やがて、チサトは海岸にたどり着いていた。
 眼前に広がる砂浜と海。その境目近くに男は立っていた。
 チサトはぐしょぐしょになっていたスニーカーを脱ぎ捨てた。濡れてひやりとする砂を踏みしめる感触が気持ちいい。
 そろりと男に近づくと、男はわかっていたように振り向いて微笑んだ。
 その顔を見たら、チサトはなんだかもうなにも言えなくなってしまった。
 チサトが横に並ぶと、男はまた視線を正面へ向けた。海なのか空なのか、あるいは海の向こうなのか、チサトにはわからなかったが、どこか遠くを眺めていた。
「黙って出てきてしまってすみません」
 男が口を開く。
 前を見たまま、チサトは大きく首をふる。
 黙って波の音を聞きながら、どれくらいの間そうしていただろう。
 いつの間にか雨は弱まり、雲も薄くなっていた。
「……雨、やむね」
 呟いた言葉は波の音にかき消され、チサトはたったひとりきりで波打ち際にたたずんでいた。
 雲の切れ間から青空がのぞき、久方ぶりの晴天になりそうな気配がしていた。
 目を閉じ、深く息を吸い込む。洗われた空気が身体の隅々まで行き渡る。
 帰ったら洗濯機を四回まわそう。
 太陽の下に洗濯物を干して、クリーニングも出そう。それから、恋人に帰国の催促をしなくては。
 梅雨の終わりを告げる光が、雲の隙間から射しこんできていた。

 

 

 

ミズイロさん掲載許可を頂き有難うございます。