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アプリnovelnove交流による企画。

プロット交換小説作品④

嵐に響くは少年の歌

                                        のんのん

お借りしたプロット…「プロットN」

 

■プロローグ

 季節外れの台風だった。今年は、猛暑といい、ゲリラ豪雨といい、異常気象が続く。一時より地球温暖化の話題が減ってきたとはいえ、日本もどんどん暖かくなってきているようだ。夏の暑さは耐えきれないけれど、冬は幾分か過ごしやすくなるだろうか。と言いながら、冬は冬でどうせ寒くなって、地球温暖化なんて嘘だとぼやいているのだろう。

 「お父さん、ちゃんとお母さん今日帰ってこれる?」

 地球温暖化が叫ばれたときには、テロがどうした、自衛隊派遣がどうしたということを言っていて、自分は仕事に就く前に、結婚もする前に死ぬのではないかと思っていたが、案外しぶとく生きて、今年三十六歳を迎えた。暗闇の中、結婚式のときに貰ったばかでかいろうそくには息子の顔が照らされている。早生まれだからなのか、裕樹は二年生にもなるのに未だ幼さが抜けきらない。

 「お母さん、まだ連絡見てないみたいだ。だけど、停電はうちの周りだけみたいだから、心配しなくても大丈夫だ」

 くしゃくしゃと裕樹の汗ばんだ頭を撫でて、笑ってみせた。

 「電気、このままなの?」

 「風で倒れたお店の看板が、電線を切っちゃったらしいんだ。だから、今日は暗いままかな」

 今日が土曜日で助かった。学校が休みでなければ、俺もまだ帰ってなかっただろう。

 「暗いし、飯も食ったし、寝ようか」

 「まだ眠くないよ」

 「宿題は終わってるのか?」

 「明るいうちに終わってるよ」

 さすが、俺の子でもあるが七瀬の子だ。優等生に育っている。さて、何をして過ごしたものかと頭を抱えたとき、俺はあることを思い出した。あのときも、季節外れの台風があったっけ。

 「裕樹、昔話を聞かないか」

 昔話?と裕樹が首をかしげる。

 「そうだ、お父さんが小さかった…といっても今の裕樹よりはお兄さんだが、そのときに同じような台風があって、そのときのお話だよ」

 もともと本が好きな裕樹は、にっこりと笑って「聞きたい」と頷いた。

 

 

■転校生

 台風の話をするには、もっと前のほうから話を始めなきゃいけないな。そのとき僕は中学校二年生だった。そうだ、裕樹と同じ二年生。年が違うけどな。え、僕、が変だって?昔話をするときは都合がいいんだ。

それも季節外れだったんだ。夏休みも、合唱コンクールも終わって、特に楽しみもない時期に朝から教室がざわついていたんだ。理由は、お調子者のヤスが、日直が担当する学級日誌を職員室に取りに行ったときに、担任のタカハラ先生と知らない男の子が一緒にいるのを見たからだった。

季節外れの転校生だし、みんな何となく浮き足立って、それを真っ先にクラスに知らせたヤスは得意げだった。ほら、転校生って四月とか新しい学年になるときに来るのが普通だろ。後ろを見ると雑巾がかかっていない机が一揃い置いてあって、ヤスの話は本当だってなったよ。けど、僕には関係のないことだった。どうせ転校生がきたって、「ツカサは問題児だ」って口の軽いやつが言って、話しさえしないって目に見えていたから。それに、一人でも平気だと思った。

 

僕が問題児っていうのは、今じゃあ考えられないだろう。重なってしまったんだ。まず、中学に入ってからのテスト。中学校に入ると一気にテストが難しくなる。そのときに、全然勉強をしていなかった僕はまったく解答用紙を埋められなくて参っていた。何とか書くだけでも書かなきゃ、そう思ったとき、答えがさらさらと見えてきたんだよ。それをそのまま書いたら、なんと学級委員長と答えがまったく同じで、カンニングだと言われてしまったんだ。委員長とは、席も離れていたし、そんなことしていないんだけど、続いた上に複数教科、同じことが起こってしまってね。

それと、ちょっとした喧嘩を友達としたときに相手を大けがさせてしまった。本当に軽く押したつもりだったんだけど、相手が思い切り転んで、頭を机に打った。血が止まらなくて、病院に運ばれて三針縫ったって言っていたな。教室の金魚が、僕が飼育当番で餌をやった次の日に全部死んじゃったこともあったな。

僕も訳が分からなかったんだ。けど、そんな言い訳通じなくて、他にも自覚がないよくないことが続いてしまって、僕は『問題児』になった。それでも何とか本当の問題児にならなくて済んだのは、父さんと母さん…裕樹のおじいちゃんとおばあちゃんが信じてくれたからかな。

「ツカサ、悪いことしちまっても嘘言わねえってのは、ずっと一緒にいる父ちゃんが知ってる。きっと、テストはお前の運がすこぶる良かったのと、他のは、その分運が悪くなっちまったのさ」

「あと、嘘つくことあっても、嘘つく時のツカサの癖、ちゃあんと知ってるんだからね」

嘘つく時の癖、教えてもらってなくてね、まだ自分でも分からないんだ。

 

タカハラ先生と一緒に教室に入ってきた転校生は、ハツカといった。かっこいいという訳ではないが、賢そうな整った顔立ちで、転校生ということも相まって女子はきゃあきゃあ言うんだろうなと思って見ていた。なんだって、転校生というものは、それだけでもてるのだろう。だけど、ハツカは女子からもてなかったし、男子からも距離を置かれた。

 不思議な話し方をするやつだった。同じ年の人に向かって、です、とか、ます、とか作文みたいな口調で話すんだ。一時間目が終わった休憩時間に取り巻きができた。どこから来たの、前の学校で部活はしてた、今どこらへんに住んでるの…そういった質問にハツカは、北の地域から参りましたが皆さんはご存じないかと思います、部活には所属しておらずまっすぐ家路についていました、今はアスナロ団地の近くに住んでいます、と律儀に答えていった。初めは、慣れないからその口調が抜けないのだろうと皆思っていたが、三日経っても、一週間経ってもその口調は変わることがなかった。

 そして、もう一つ、ハツカは僕以外と話さないと言ってもいいほど、他のクラスメイトとは話さなかった。もちろん。僕の予想していた通り、問題児だからつるむのはやめておけと忠告するやつもいた。するとハツカは、

 「それは、私が来る前のツカサのことです。私は、私の目で見たことを信じ、考えることにします」

 そう、突っぱねていったんだ。最初は僕だって居心地が悪かったさ。何せ、丁寧すぎる話し方をするやつだったし、クラスメイトの忠告も無視するから、変な目で見られていたんだ。初めの頃は、『転校生にする質問マニュアル』なんてものがあれば、半分以上攻略ししまうようなことしか話さなかった。けれど、話しているうちに話し方なんて、どうでもよくなっていた。しっかり僕の話も聞いてくれるし、きちんと考えてから答えを出してくれた。ただ、そんなハツカが一度だけはぐらかしてきた質問があった。

 「ねえ、どうしてハツカは転校してきたの?」

 学校生活があまり好きではなくて、自分ももしかしたら転校できるかな、なんて軽い気持ちでした質問だった。

 「ツカサはどうしても理由を知りたいですか」

 「いや、べつにいいけど」

 ハツカは斜め下を向いて考えていた。

 「いずれ、ツカサに分かる時が、私が言うべき時がきます」

 答えに詰まったハツカが珍しくて、俯いた顔のシルエットとか、グラウンドから聞こえてきた野球部の声とか、やけに鮮明に覚えている。

 

 

■教室

 ハツカが転校してきて一か月、僕たちは一緒に登下校をするようになった。とはいっても、ハツカの家は僕と反対方向だから、校門まで、だったし、待ち合わせしているわけでもないから、朝は会ったり会わなかったり、だったけど。僕の変化に一番驚くとともに、喜びの笑顔を見せてくれたのはウラシマさんだった。

ウラシマさんというのは、学校の用務員さんだ。校門からいささか遠い生徒玄関周りの掃除や、手入れをしてくれていた。あの頃は、とやかく言う人もいなかったのか、ウラシマさんは長すぎる髪を前髪と一緒にお団子のように頭の高い位置で結んでいた。だから、ウラシマさん。絵本に描かれた浦島太郎にそっくりだったんだな。誰が言い出したのかは分からないけど、僕らが入学するずっと前から、ウラシマさんはウラシマさんだった。見るからに人がよさそうなおじいちゃんで、ハツカが来る前は僕の唯一の話し相手だった。

 

「ツカサくん、最近はその子と一緒にいるねえ。友だちができたのかい。もの寂しくも感じるけど、なんだか嬉しいねえ。巣立ってゆくヒナを見守る親鳥の気分だ」

ハツカとなんとなく登下校を五日ほどした頃であったか、ウラシマさんがただでさえ皺に埋もれそうな目を、さらに細めて話しかけてきた。

 「べつに、転校してきたばっかりで、こいつも友だちがいないから余りもん同士でくっついただけです」

 「先日、転校してきました、ツカサくんと同じクラスのハツカと申します」

 ハツカは、朝の慌ただし玄関前なのに、きちっと足を止めウラシマさんに挨拶をした。

 「そんな態度だと、こちらが恐縮してしまうねえ。うちのツカサが世話になってるね」

 冗談めかしてウラシマさんは言った。

 「さあ、ここで老いぼれと立ち話してたら教室に遅刻するよ。いってらっしゃい」

 再び歩を進めたが、どんよりと足が重かった。

 「ツカサ、用務員さんとは入学直後から仲がいいのですか?」

 「仲がいいって言っても、最初は普通に挨拶するくらいだったよ。僕が問題児って言われるようになって、しゃべる人がいなくなって今みたいに頻繁にしゃべるようになったかな」

 「そうでしたか」

 ハツカがふと目線だけを後ろに向けた。

 

 一時間目は数学だった。中学校になったら算数じゃなくて、数学って言うようになるんだよ。

 「今日は七日か…出席番号七番だから…ツカサ、この問題を解け」

適当な先生だからそういう氏名の仕方をするだろうと思っていたが、案の定だった。しかも、ひねりのない出席番号で当てるならもっと簡単な問題にしてくれればいいのに、なかなか難しい問題だった。誰も手を上げないから逃げたんだろうな。だが、僕は数学が大の苦手だったんだ。

 「わかりません」

 その一言だけ告げて僕は席に座った。

 「なら、隣の、えっと、ハツカ、解きなさい」

 僕の代わりに、ハツカは完璧に問題を解いた。

 

 授業が終わってハツカが僕の机の隣にやって来た。

 「ハツカは頭がいいね」

 少し皮肉を込めて、「は」に力を入れて言ってやった。難しい問題を解いたハツカには、クラスの羨望のまなざしが集まっていた。できない僕の後の活躍だったから、良いものもさらに良く見えたはずだ。

 「そんなことはありませんよ。ツカサにも素敵なところがあります。ただ、今はその良さをうまく理解できていないだけなのです」

 「できる奴だから、そんなこと言えるんだよっ」

 きれいごとで、頭がいい奴に慰められても何も嬉しくない。むしゃくしゃした俺は、椅子から立ち上がりハツカから離れようとした。本当にそれだけだったんだ。少しぶつかったかなと思った時、ハツカが通路を挟んで反対側の机にまでぶつかって、その更に隣の机にまで当たるほど大きく動いた。そして、先ほどまでしっかりと天井にあった蛍光灯が、転んだハツカの足元に落ちて粉々に砕けた。クラスの恐怖の目が僕に集まる。そうだ、僕はこんなクラスの目しか知らない。僕は何もかもそのままで、走って教室を出た。

 

 二時間目が音楽で助かった。あの先生はゆるいし、問題児とは関わり合いたくないようだから探されることもない。社会科教室で膝を抱えてうずくまった。組んだ腕を膝の上に載せ、頭をうずめる自分だけの闇。どうしてあんなことになってしまったんだろう。僕はただ椅子を動かしただけ、少しハツカにぶつかっただけだったというのに。きっと教室では片付けをしながら、僕のことをひそひそ言い合っているんだろう。違うのに、違うのに、違うのに、違うのに、違ウ、違ウ、チがウ、チガウ…

 そうぐるぐると考えているうちにいつの間にか眠ってしまったらしい。気づけば三時間目の終わりのチャイムが鳴っているところだった。授業始まりと同時か、四時間目のチャイムが鳴り終わってから教室に入るか、とできるだけゆっくりと準備をして、廊下をのろのろと歩き、職員室の前を通りかかった時だった。

 「先生、ハツカ君をツカサ君から遠ざけるべきです!」

 「そうです、あんなに優等生なのに、ツカサ君といたら問題児になってしまいます」

 室内に響くほどの大声で、二、三人の生徒が訴えているようだ。

 「先生も知っていますよね、ツカサは問題児なんですよ。ハツカ君は『僕がよろけたときに、思い切り体重をかけてしまったから、あれだけ机が動いてしまったんです』と言ってましたけど、もしもまたあんなことが起きたら、ハツカ君は学校に来なくなるかもしれません。だから!」

 ずきりと胸が痛む。あの時はハツカの顔さえ見られなかった。きっと化け物でも見るような目で僕のことを見ていたのだろう。いや、あれだけいつも冷静なら、呆れたとでもいうように冷ややかに僕の背中を見送っていたのだろうか」

 「三人とも少し落ち着いて」

 叫んではいないのに、タカハラ先生の声が聞こえてきて、先ほどまで抗議の声を上げていた生徒も口をつぐむ。

 「先生たちは、子どもたちを束縛してしまうようなことはしてはならないの。

 ほら、次の授業が始まるから、教室に戻りながら頭を冷やしなさい」

 え、でも、など、ぷつぷつ文句を言う生徒たちを、「ほら、私も次、四組の授業なんだから」と冗談めかして廊下に押しやるタカハラ先生は格好良かった。まだ若い、男子生徒には「ちゃん」付けで呼ばれる優しい先生だったんだけど、担任を任されるだけあって、生徒の日々の変化を見ていたり、駄目なことは駄目と言ったりできる、芯が通った素敵な先生だった。周りから、変な目で見られる僕のことを、初めから気にかけてくれていたので、三人の話を途中で切ったのも僕をかばってくれてのことだったのだと思う。タカハラ先生の名誉のために言っておくけど、いつもはこんなふうに勝手に切ることなく話はきちんと聞いてくれていた。「今日の放課後に話できる?」とまっすぐな黒い瞳で何度も見つめられてきた僕が言うのだから、間違いない。

 

 

■飼育小屋

 それからしばらく経った日のことだった。朝から何となく学校の中がざわざわとして落ち着かなかったし、朝のHRの時間になってもタカハラ先生がなかなか戻ってこないから、何かがあったんだろうな、とみんな予想はしていた。ドラマに出てくるような鑑識の人を見たよ、とか、学校の裏、先生方の駐車場へ向かって行ったのを見た、とかいう目撃情報がいくつかあって、殺人事件だなど想像はもくもくと大きくなる一方だった。

 十分ほど遅れて教室に入ってきたタカハラ先生は明らかに顔色が悪くて、先ほどまで噂話で盛り上がっていた生徒もただ事ではないと静まった。いつも通りに挨拶をした後、先生からのお知らせになった。

 「今朝、学校の飼育小屋で飼っていたウサギが惨殺されているのが見つかりました。もしかしたら野犬が入ったのかもしれないので…今月はうちのクラスが飼育小屋当番だったわね。昨日の担当だった人は、昨日の小屋の様子がどうだったかなど聞きたいから、お昼休みに職員室まで来てください。あ、大丈夫?昨日の担当の人、お昼休み時間ありそう?」

 「はい、大丈夫です」

 そう心細そうに答えたのは、この間職員室で大声を出していた生徒のうちの一人だった。

 

 「ハツカの学校では、こういうことってあった?」

 昼休み、大騒ぎになっている学校を横目に、僕とツカサはあまり人が来ない南階段に並んで腰かけていた。

 「いいえ」

 「この学校では、数カ月に一度、怪奇現象が起こるんだ。僕が入学してから、すでに四回か五回くらい。いや、もしかしたら、怪奇現象が続くな、って認知される前のも含めたり、小さなことも含めたりすると、もっと多いのかな。もうみんな驚かなくなってしまった」

 動物が殺されるのは初めてだから、今回は大騒ぎだけどね、と僕は苦笑して続けた。

 「その、怪奇現象とやらは解決されているのですか?」

 僕は首を横に振った。

 「あと、一部の連中はどうやら僕を犯人だと決めつけているみたい」

 「それは、なぜなのですか」

 「僕が、問題児だから」

 「何かがあったのですね」

 「僕と関わった人が、怪奇現象に巻き込まれている。今回のだって、昨日の飼育小屋の担当、この間、ハツカから僕を遠ざけるべきだと職員室で言っていたうちの一人だったんだ」

 そのほかにも、うちのクラスだけ謎の食中毒じゃない腹痛に見舞われたり、僕のことを問題児だっていじめてきた生徒の靴が中庭のところに転がっていたり…僕は覚えているだけのことをハツカに教えた。

 「それに、この間だって、ハツカ、君自身が体験したじゃないか」

 「先日も言ったはずです。あれは、私がよろけたせいですと。蛍光灯が落ちてきたのは、全くの偶然です。用務員のウラシマさんも、上の取り付け部分が緩んでいたと言っていたではないですか。それに、ツカサが蛍光灯を落とせるのであれば、テレビへ行って一儲けできるかもしれません」

 「ハツカ、冗談も言うんだな」

 「私はいつもいたって研究熱心かつ、真面目ですから」

 珍しくハツカが顔を緩めて言う。この学校の中で今一番落ち着いているのは、この空間なのではないだろうか。

 「それに、私はツカサが嘘をついてもすぐわかりますから。ツカサは問題児ではないと私は信じていますよ」

 「あ、それ、うちの母ちゃんも言ってた!教えてくれよ、どうなるんだよ、鼻の穴が膨らむのか?眉毛が上がるのか?てか、そんなに短い期間でわかるものなのかよ!」

 詰め寄る僕をうまくかわしながら、ハツカは、私は研究熱心ですから、ともう一度微笑んだ。

 

 

 

■季節外れの猛烈な台風と放送室

 ああ、やっと季節外れの台風の話だ。前置きが長くなってしまった。

 その時、僕とハツカはまだ校内、僕ら以外は誰もいない放送室にいた。休みの日に忍び込んだから、放送室どころか、学校にも誰もいない。僕が放送委員だったもので、レコードもあるんだ、と話したらハツカが見たいと言って、休みの日にゆっくり見ようか、という話になったんだ。

建物の外はかなり激しい風が吹き荒れているようで、ガタガタと唸りを上げていた。

 「僕らも早めに帰れば良かったんだ。これじゃ外にも出られない」

 弱音を吐く僕とはうって変わって、ハツカは顔色ひとつ変えずに、放送室の機器をいじっていた。その手には一枚のCD。

 「ハツカ、いったい何をする気なんだ?」

 「新たな変革、です」

 ハツカの白い指が、スイッチをONの方向へずらす。生徒も先生も誰もいない静かな学校全体に、まるで何かを目覚めさせるような神秘的な音が響いた。その曲は、僕が小さい頃、母さんとよく聴いていたもの。そうだ、母さんがこれを歌っていた歌手が好きで、よく聴いていたんだっけ、だからタイトルもよく覚えている。『今日の日はさようなら』。微妙に調子っぱずれの母さんの歌声で聴いていたから、合っているはずなのに、音程が間違っているように聞こえてしまう。だけど、どうしてハツカはわざわざこんな曲を選んだのか僕にはわからなかった。

 

 

   いつまでも 絶えることなく

   友達でいよう

   明日の日を夢見て

   希望の道を

 

   空を飛ぶ鳥のように

   自由に生きる

   今日の日は さようなら

   また会う日まで

 

   信じ合う よろこびを

   大切にしよう

   今日の日は さようなら

   また会う日まで

 

   また会う日まで

 

曲はずいぶん長く続いていた気がする。あるいはその間だけ、嵐がおさまったかのような静寂すら感じた。隣にいたハツカは目を閉じていたので、僕もそれに倣って目を閉じた。

 この日を境に、僕らはあまり話さなくなった。校門でも会わないし、ハツカは休み時間教室におらず、どこにいるのかもよくわからない。うろうろと何となくハツカの姿を探している僕の目には入らないのに、目撃証言だけはちらほら目にする。普通、ただそこにいるだけじゃ目撃情報として話にすら出てこないのだろうけど、なかなかに目立つ場所にいるらしい。音楽室でベートーヴェンの肖像画の前にずっと立っているのを見た、廊下を歩いているときに中庭に一人でいるのを見た、など、気になる情報だった。ハツカは一体何をやっているのだろう。

そして、授業と授業の間の休み時間に、興味深い話が前の席から聞こえてきた。

「午後の掃除の時間に、俺がさ、じゃんけんで負けてゴミ袋を焼却炉に運びに行っただろ。で、そしたら、焼却炉の裏側で誰かがひそひそ話す声が聞こえたんだ」

「おい、やめろって。怪談の時期はもう過ぎただろ?もう十二分に寒いって」

「いや、怪談じゃねえよ。だから、俺は気づかれないように、ちょっと離れたところからその様子を見ていた。で、本当かどうかは定かじゃないんだけど、その時そこにいたのは、ハツカと…誰だったと思う?」

「いや、マジ知らねえって。えーと、あー…、花子さん?」

「ちげえよ!真面目に答える気ないだろ!あのモズクだよ、モ・ズ・ク!三年のモズクだったと思う」

「いや、お前、『かもしれない』だろ?そんなに堂々と話すなよ」

モズクといえば、学校で知らない人がいないくらいの有名人だった。その理由は、留年したからだ。三年を卒業する一歩手前で留年が確定して、彼はもう一度三年生を繰り返している。だけど、留年のショックのせいか、それとも自棄になったのか、授業にはほとんど出ず、所在も明らかではない。そんな、学校にあまり来ていない彼なのに、誰だって一目で彼の顔を覚えてしまう。いや、顔と行っていいのかどうかわからないが、彼は顔に身の毛もよだつ般若の面をかぶっていたからだった。それも有名な理由の一つだった。

そんなモズクとハツカが一体どんな関係性があるのか、僕は気になった。

 

 

■ウサギのいない飼育小屋と、ハツカが向かった先

 「最近は一緒にいないんだねえ。喧嘩でもしたのかい?喧嘩なら、若いうちに大いにするがいい」

 登校中にウラシマさんに話しかけられた。

 「いや、喧嘩じゃないんですけど、なんだか避けられているようで…。あまり休み時間、教室にもいないから、ふらふらするついでに探してみてはいるんだけど」

 ウラシマさんは、「探すついでにふらふらする」の間違いじゃないのかい、と笑った。

 「ツカサくんにいいことを教えてあげよう。こないだ私に丁寧なあいさつをしてくれた彼…ええと、ハツカ君だったかな、は、最近昼休みの時間に飼育小屋のそばで見かけるよ」

 「飼育小屋に?本当?」

 「百聞は一見にしかず、本当かどうかは自分の目で確かめるとよかろう」

 「ありがとう」

 いつもはだるいと感じる授業が、その日はすいすいと進んでいく気がした。

 

 昼休みになって、ハツカが教室を出たのを確認してから、僕も外靴に履き替え飼育小屋へと走った。はたして、ハツカはそこにいた。まだ血の跡が消えきっていないウサギの餌入れをぼんやりと眺めるように座り込んでいた。

 「ハツカ!」

 びくっとハツカの肩が動いて、立ち上がった。

 「ツカサ、びっくりさせないでください」

 「なあ、ハツカ、君は最近どこにいるんだ」

 「それは、教えることはできません」

 即答だった。お前に話すことはないと言われているようで、癪にさわった。

 「どうして教えてくれないんだよ。僕たち、友達じゃなかったの」

 「友だちだからこそ、教えられないこともあるのです。ツカサ、わかってください」

 「そんなの言い方、納得できないよ」

 ハツカに憤りを感じた。僕は、問題児って言われるようになってからいつも一人で、他人のことなんか無視して、何を言われても気にしないで、自分を押さえ続けていたのに、ふつふつと湧き上がる感情に初めて出会った感じがした。

 「モズク?モズクが何か知っているの?」

 その名前を口にした瞬間、それまで飄々としていたハツカの目線が揺れた。そして、

 「ハツカ、待てよ!」

 ハツカは僕を残して走って行ってしまった。

 

 走って追いかけてハツカには追いつけなかった。僕は、噂話を思い返した。中庭、音楽室…中庭は、玄関から入ってすぐのところにある。そこにもいなければ、音楽室に行こう。それでも駄目なら帰りに校門前で待ち伏せするしかない。

 中庭にはハツカの姿は見えず、僕はそのまま二階の音楽室へと向かった。三階分の階段を駆け上がると、さすがに中学生だった僕も息が切れた。なのに、そこにはハツカはいなかった。

 しんと静まり返る音楽室に、行儀よく整列した音楽家たちの肖像画があった。音楽室の向かい側には東校舎があって、肖像画は東校舎側に向き合うように飾られていた。そのうちのべーとーヴェンだけが

他よりやや低い位置にあって、彼の目線に違和感を覚えた。『音楽室でベートーヴェンの肖像画の前にずっと立っているのを見た』、噂話が頭にちらつく。ベートーヴェンの目線を追いかけると、その先に東校舎の教室の、ある教室があった。

あらゆるものがそこにあるように思えた。ハツカはきっとあそこにいる、そんな確信めいたものもあった。

 

■三階空き教室

 本来、何年何組とクラスの紙が入れられるはずのところが白い教室に行きついた。生徒は立ち入り禁止とされる三階の空き教室。夜中になると女の人の泣き声が聞こえるとか、入ったら出られなくなるとか、お決まりの怪談つきだ。するりと扉を開けると、いや、本当に人の出入りは少ないはずなのに、するりと開いたんだ。するりと開けると、そこは雑然とした部屋だった。欠片だけが浮いているホルマリン漬けの壜、角が丸くなった先生用の三角定規、スズランテープでぐるぐる巻きにされた足の曲がった椅子、中身のいない藻で曇った水槽、伊能忠敬が測量してから改変されてないのではと疑うほど古びた日本地図…。流れゆく時の中から見放されたモノたち、もちろん、それを飲み込んでいる教室自体も。普通の教室と同じ広さのはずなのに、留めた時間がここで膨張したのか、やけに広く感じられた。

 いろいろ物がありすぎてわからない。入ってきた入口に戻れるのかさえわからず、不安だった。それでも奥へ進むしかない。ここにはハツカと、そして、モズクがいる、そんな確信があった。

 足音を立てないように体の向きを変えながら、縫い進んでいった。健康診断のときに保健室に急ごしらえで出てくる、キャスター付きのカーテン…パーテーションを、お腹をひっこめながら通ると、やっと窓が見えた。ベートーヴェンが見つめていた先だ。そして、ハツカとモズクがいた。

 

 初めに、僕に気づいたのはハツカだった。

 「ツカサ、どうしてここにいるのです」

 「君を探しに来たんだ」

「ハツカ、お前が読呼んだのか」

般若の面が、咎めるような口調で僕らの間に入ってきた。モズクだ。

「い、いえ、違います」

「僕が、勝手にハツカを探しに来たんだ。ハツカは何もしてない。それより、こんなところで何を…」

モズクは、ぎゅうと手のひらを強く握った。面をかぶっている分、顔からは感情は判断できないため、体の動きなどに目が行ってしまう。

「ここで何を、だと。すべてはお前のせいなのに、よくそんなことが言えるもんだ、ツカサ」

「え、ちょっと待ってよ。ツカサ、だって?何故、君たちがここにいることが、僕と関係あるんだ」

 「そうだ」

 モズクが喉から声を絞り出すように言う。

 「お前の気色の悪い想像力が、すべての元凶なんだ。他人に対する劣等感や嫉妬、自己承認欲求の強さ…だけどな、誰もお前なんて注目していないのさ。お前の存在が目障りなんだ」

 何が何だかわからなかった。僕の想像力だって?

 「感受性が生み出す想像のエネルギーだと?ふざけるな。そんなものの、そして、お前一人ごときのために、俺はわざわざ組織からクソな学校に残されて、挙句、こんな埃っぽい汚らしい場所で、このクソ学校を貴様のキモい想像力から守るためだけに、ただ戦って、ただ身を削って、誰にも救われない。こんなことが、こんなことが!」

 モズクはいきなり僕に掴みかかってきた。般若の顔が迫る。たとえその下の顔を見なくとも、どれだけ気が高ぶっているのか、掴みかかってきた手や、体温や、息づかいから伝わってきた。怖い、怖い怖い、怖い怖い怖い…近くにある恐怖というものがすべて地面に集まって、足からぐうっとせり上がってきたようだった。

 「離してくれっ!」

 「モズク、やめてください!」

 

 僕らの叫び声は、ほぼ同時だった。もし、ほんの少しハツカの声が僕の鼓膜を震わせるのが早ければ、あの後のことを止められたのだろうか。いや、それは、単なる言い訳にしか過ぎないな。

 僕は、モズクと距離がとれるくらいの強さで押したつもりだった。けれど、彼は簡単に僕から離れ、窓ガラスを突き破っていた。まっすぐに伸ばされた彼の手足、周りを彩る窓ガラスの色、後ろに見えた音楽室、般若の面、すべてがスローモーションのように見えた。だが、人は重力にも、時間の波にも逆らえない。モズクは窓から落ちた。僕の、制御されなかったエネルギーによって。

 

 「ツカサ」

 何度、ハツカが僕の名を呼んだのか分からない。もしかしたら、呼んでいなかったかもしれない。気づけば僕はハツカとともに、焼却炉の裏に座っていた。

 

 

■ハツカ

 「ツカサ、私がなぜここへ来たか尋ねたことがありましたね」

 ハツカの声は、僕の絡み合った感情をゆっくりとほどいていった。

 「それを、伝えるべき時が来ました。ですが、ただ、本当は、もっと早くに伝えているべきだったのかもしれません」

 

 まとめると、思春期という感受性の高い中にいる子どもたちの想像力が時々、そのものとして現れるのだという。それがモズクの言うところの「エネルギー」であり、通常であれば現実世界に現れると言っても、うすい靄程度のものではあるのだが、今回の僕の場合は違ってしまった。

「ツカサの内側に蓄積していたエネルギーは、誰の手に負えるものではありませんでした。そこで、フウジビトであるモズクが、この学校に残り、ツカサの力を抑え込もうとしたのです。大抵は、アラビトの感情が暴走によるものであるため、フウジビトの力だけで済むのです」

 ああ、『フウジビト』と『アラビト』の説明がまだでしたね、とハツカはつぶやいて、小枝で地面に文字を彫っていった。

  

  【フウジビト  封人】

    【アラビト   現人】

    【クリビト   操人】

 「アラビトとは、ツカサのような存在です。想像する者、具現化する者。力の大きさはさまざまですが、子どもたちは誰でもその力を持っています。大抵、その力を弱く、成長とともに力を失います。その、『大抵』では、なくなる時、つまり、アラビトの力が強大である時…」

 ハツカがフウジビトをぐるりと円で囲み、フウジビトからアラビトに向かって矢印を引いた。

 「先ほども言いましたように、フウジビトがアラビトの力を抑え込みます。力の強大化は、アラビトのバランスが崩れることによって起こることがほとんどであるため、暫くの間、フウジビトが力を抑え込むことで、安定してくるのです。組織の中では、方策の一人目として派遣される者です。

 ただ、問題なのは、フウジビトはあくまでもアラビトの力を封じるだけなのです。根本的な解決にはなりません。また、アラビトの暴走が始まる可能性だってあるのです」

 ハツカが一息ついて、僕の目を見る。「大丈夫ですか?」目で僕に問うてくる。現実と夢のはざまでぐらぐらしている気がしたが、それを振り払うように僕はゆっくりと瞬きをした。次は、クリビトが円で囲まれた。

 「クリビト、これは力を捜査できる者です。アラビトの想像を具現化する力を左右できます。もちろん、アラビトの力を悪用することだってできる存在です。クリビトは、アラビトの力を封じることができないため、力を左右しようとするアラビトの力が、そのクリビトの力を上回ると身を滅ぼすため、そのようなことをするのは滅多にいませんが…。

 そして、先ほどの説明にクリビトが出てきませんでしたね」

 どくりと僕の全身の血液が脈打った。

 「組織から派遣されたクリビトは、私です」

 

 ハツカが書き加える。

  【フウジビト  封人  モズク】

    【アラビト   現人  ツカサ】

    【クリビト   操人  ハツカ】

 「当初は、モズク一人でツカサの力を抑え、事なきを得るはずでした。ですが、エネルギーの暴走は収まらず、モズクにも限界が近づいていました。そこで、寄越されたのが私です。モズクがツカサの力を抑えながら、私がエネルギーを繰る、という計画に変更されました。その計画も結局は一時しのぎで、根本的な解決にはならないという結論に至りました。

 こう言ってしまうのは心苦しいですが、先日のウサギ惨殺事件、季節外れの台風も、私が転校してくる前の怪事件も、ツカサの力が引き起こしたものです」

 ハツカが、フウジビトとクリビトをつなぐ線を引いた。

 「これ以上、変更した計画ではどうにもならないと結論した組織は、新たな命令をモズクと私に下しました」

 今まで、淡々と説明を続けていたハツカが急に言葉に詰まった。

 「なんなんだよ、僕は一体どうなるんだよ」

 僕は、前に詰め寄った。それでも、影すらも重なることはなかった。

 「組織が下した命令、それは、ツカサをこの世から消してしまうことでした」

 

 「なあ、嘘だろ。結局はハツカが転校してきた理由ってのは、僕を殺すことだったのかよ」

 「結局は、そうなってしまったのですね」

 「嘘だろ、だから、問題児の僕にだけ近づいてきたのかよ。畜生、畜生…」

 ハツカは何も言ってくれなかった。頭がガンガンして、どうにもできない塊が喉のほうへとせり上がってきた。もうどうにもできない。世界なんて、崩れてしまえばいいのに。僕の力で、また何かが起きるなんて関係ない。どうにでもなってしまえばいいんだ。

 先ほどまでくっきりと地面に色を落としていた影の輪郭がぼやけ、みるみるうちに地面の色と同じになった。ハツカがぱっと顔を上げ、何かを言おうとした。今更、何を言うつもりなのだろう。僕を消してしまうなら、さっさとしてしまわないと手遅れになるぞ。

 

   いつまでも 絶えることなく

   友達でいよう

   明日の日を夢見て

   希望の道を

 

 歌だった。ハツカは何も言わなかった。僕は消されず、まだ生きている。季節外れの日に、放送室から流したあの歌、あのメロディだった。

 

   空を飛ぶ鳥のように

   自由に生きる

   今日の日は さようなら

   また会う日まで

 

 「この曲は、作詞作曲をした金子昭一氏が西ドイツを訪問した後に作った曲なのです。そう、ベルリンの壁がまだあった頃のこと、その壁に残された散弾銃の跡や、壁を越えようとして射殺される人々…そんな中でふと上を見上げると、壁なんて関係なく自由に飛び交う鳥が見えたのだそうです。

 そして、同時にもう一人のクリビトに問いかける力も…」

 立ち込める異変に気づいたのか、近くの木に止まっていた鳥が飛んで行った。

 「私は、クリビトの能力を見出され組織に呼ばれました。けれど、この結論に納得いかなかったのです。なぜ、壁の向こう側の人を力で抑圧し、排除しようとするのか。どうにかして自由に行き来できる翼を持つ方法だって、いえ、もっと根本的な部分から、互いを隔てる壁を壊す方法だって、探せばあるはずなのです」

 ハツカが自分の思いを表に出すのは、思えばこれが初めてだったかもしれない。きっと、彼は彼なりに、自分自身で抑圧していた何かがあったのだろうと思う。

 「ツカサ、辛い思いをさせましたね。

 最後に、私はツカサの想像を繰ります。モズクがいない今、私自身、ツカサのエネルギーに耐えられるかわかりません。

 ツカサならできます。想像するんです、穏やかな世界…能力者たちの壁が取り払われるユメを」

 「そんなこと言われても、僕には自信がない。僕が少しでも間違えれば、どうにもならなくなってしまうかもしれないんだろ?」

 びゅうびゅうと吹き荒れる風に乱される髪の間から、微笑んだハツカの顔が見え隠れした。

 「信じて。ツカサにも素敵なところがあります。ただ、今はその良さをうまく理解できていないだけなのです」

 ぎゅっと目を閉じた僕の耳に、風の轟音にかき消されそうになりながらも聞こえてきた。

 

   信じ合う よろこびを

   大切にしよう

   今日の日は さようなら

   また会う日まで

 

   また会う日まで

 

 

■保健室

 気づけば、僕は保健室のベッドに横たわっていた。長い長い夢を見ていたような気がする。隣のベッドは空っぽで、大きなものを失くした喪失感で胸が苦しくなった。喪失感で「胸に穴が開いたようだ」というけれど、あれは嘘だ。あまりに失ったものの存在が大きいと、胸が悲しみに浸されて重くなるんだ。

 しばらくぼうっとベッドの上で座っていると、カーテンをそっと開けた保健室のおばちゃん先生と目が合った。

 「焼却炉の前で倒れていたのよ。よかったわね、雨が降らなくて。一時空が真っ暗だったんだから」

 もし雨が降ってたら、あなた、びしょ濡れの泥だらけだったわね、と笑うおばあちゃん先生に、僕のほかに誰かいなかった?そう聞こうとしてやめた。いたのなら、その人物もここにいるはずだし、教えてくれるはずだ。すでに空は、赤い光を帯び、街並みを緋色に染めあげていた。

 「もう放課後よ。部活の人以外みんな帰っちゃってるわ。どう?自分で帰れそう?」

  こくりと頷くと、おばちゃん先生は、担任の先生に伝えてくるから変える支度して待ってて、とカーテンをシャッと開けた。僕の持ち物は、問診机の上にきちんと並べられていた。いるはずのない姿を期待して、僕はため息をついた。

 「あ、そうそう、これあなたのかしら?」

 職員室へと行きかけた先生が戻ってきて、小さなメモ帳を僕に渡した。

 「違ったら、返してちょうだいね」

 僕は、青い表紙のメモ帳と保健室にとり残された。文具コーナーに陳列されているありふれたメモ帳だった。こんなもの持っていたっけ…そう疑問に思いつつも表紙を捲ると、そこには、僕の求めていたものがあった。几帳面さ、他人行儀な感じ、遠くを見つめる横顔、すべてを詰め込んだあいつの筆跡だった。

 

  【フウジビト  封人  モズク】

    【アラビト   現人  ツカサ】

    【クリビト   操人  ハツカ、

              ウラシマ?】

 

    これは、アラビトの力だけではない。

    能力を能力者に悟られぬ、能力者の存在。

 

 僕は、帰宅した後に高熱を出して、その週まるまる学校を休んだ。久しぶりに出てきた学校で、僕はハツカの転校、モズクの中退、そしてウラシマさんの行方が知れないことを知った。

 人が一気に三人もいなくなったのに、学校はいつも通りに眠たくなる授業を展開し、規則正しくチャイムを鳴らす。休み時間、みんなは目の前にいる人と話しているようで、きっとどこかで別のことを考えている。誰かが誰かを避けていて、誰かが誰かを心の中で容赦なく恨んでいる空間。

 

 

■エピローグ

 深くなったろうそくのくぼみにはまだ固まりきっていないロウが溜まり、ゆらゆらと揺れる炎を反射していた。

 「これでおしまいだけど、裕樹には難しかったかもしれないな、ごめんな」

 「ううん、楽しかったよ」

 空気を読むとか、相手のことを考えての発言とか、裕樹は、こういうところは大人びている。

 「ねえ、ハツカはその後どうしちゃったの?もう会ってないの?」

 「ああ、そうだな…。あさよならを言う暇もなかったからな」

 そう言った俺の顔を裕樹は真剣な顔をしてじっと見ていた。

 「嘘でしょ」

 「え?」

 「僕だって、お父さんが嘘ついてるのわかるんだからね」

 しまった、あの癖が出てしまっていたのか。三十六年間も生きていて未だに自覚できていない、嘘をつく時の癖…七瀬にも、「あなたが浮気なんてしたら、すぐにわかるんだから」と教えてもらえないでいる。弱みを握られているわけだ。

 「ねえ、お父さん、ハツカはどうしてるの?」

 「裕樹、お母さんには内緒で、その癖が何なのか教えてくれ」

 いや、決して浮気するつもりではないのだが…。お互いに教えろ、教えないの言い合いをしていると、玄関のドアが開く音がした。

 「ただいま。すごいわね、この町内会に入った途端、真っ暗になっちゃってて…。車から玄関に入るまででもう、びしょびしょ」

 「お母さん、お帰りなさい!」

 さっきまでの教えろ、教えないの嵐がまるで嘘のように、裕樹は玄関へと走っていった。

 

 裕樹に話した後の話、学校での怪奇現象もぱたりとおさまり、脱・問題児できた俺は、順調に高校、大学と進み、中学教師になった。持ち上がりではなく、今年から新しくクラス担任を持つこととなり、生徒の名簿をさらっていた俺の目は、ある生徒の書類の上でぴたりと止まった。どこかで見覚えがある字…父親の名前を見たところで納得した。

 ハツカ、俺より先にきっちり親父になっていやがって。

 怪奇現象が立て続けに起こる学校には、まだ俺は赴任していない。もし、昔みたいなことがまた起これば、保護者としてハツカは学校にやってくるのだろうか。そう思うと、あんなことがまた起こってもいいかなと、不謹慎だけれど、少し期待してしまった。

 

 

のんのんさん掲載許可ありがとうございます。