noveで企画

アプリnovelnove交流による企画。

三題お題小説 瀞石桃子さん

クジラトリップストーリー

お題B 後編

 

4月末、水族館のポスターのお仕事は順調に捗っていた。担当の長瀬さんとの最終的な打ち合わせでは、館内の入り口に飾る持ち帰り自由なポスターが一枚、深海生物コーナーに飾るポスターが一枚、中心部の巨大なアクリル水槽に飾るポスターが一枚という計三枚の内訳になった。うち、メインとなるポスターについてはすでに完成しており、水族館側での検討会に提出されるという段階まで事が進んでいた。長瀬さんいわく、大きなアクシデントでもない限り採用になるだろうということだったので、ぼくは大船に乗ったつもりで残りの二枚についても鋭意制作していた。
3月の終わりにはJR東日本が発注した大型物件を落札できたため、西京さんもそちらのパーティーに加えられ、近頃は忙しそうにしている。以前に比べると彼女と話す機会は増えた気がするが、仕事中はお互い集中していた。
そんなぼくは、もうすぐ到来するゴールデンウィークに浮足立っていた。そろそろ、というかいい加減西京さんとの距離をもう一歩近づけたいと思っていた。一日だけのデートでもいい。もう少し気軽にお互いを理解できる時間をぼくは欲していた。
今日こそ今日こそって思いながら、無為な時間が過ぎていくことに情けなさを覚えつつ、内心向こうからお誘いがあるんじゃないかって期待している自分のすっとこどっこいな甘さよ。
ところがあくる日の午後、そのお誘いは唐突にやってきたのだ。
トントンと肩を叩かれたぼくは喜び勇んで振り向いてみた。
するとそこには先輩の吉岡さんが珈琲を片手に立っていて、ぼくは露骨に残念がった。吉岡さんは黒ぶちの眼鏡がコーヒーの湯気で曇っていたので全然顔がわからなかった。
「なんですか。ぼくはとっても忙しいんですぞ」
「忙しい人間が、テーマパークのホームページを熱心に見てんのか。なに、誰と?」
くっ、いろいろ見透かされている。吉岡さんが真顔なのが妙に怖い。
「違います。これは資料の蒐集です」
「深く詮索するつもりはないけどさ。あのさ、お前ゴールデンウィークって予定あんの?」
「え、なんですか。吉岡さんぼくを誘ってどうするおつもりですか」
「俺は予定があるか聞いてんだよね」
なんだかめちゃくちゃ威圧されている気がする。
「いや、別に今のところは考えてませんけどぉ」
「今はないんだな。じゃあさ、俺と街コン行かない?」
「マチ、コン?」
「自分の人生には一切関係ありませんよみたいなそのリアクションやめてくんない?」
「だって吉岡さんの口から街コンなんて言葉が出てくるなんて想像もつかなかったですし」
「想像力は大きくって前言ったよね。吉岡さんもこんな見た目だけど、街コンにだってちゃんと興味はあるんだよ」
「ぼくは正直あんまり興味がないっていうか。そりゃ吉岡さんはね、違うと思いますよ。だってイケメン眼鏡だし、スタイルもいいし、性格も優しいし、お金もあるし、非の打ち所のないステータスが揃っているから、行けば入れ食い状態になるはずですよ。でもぼくはそういう場所には相応しくないというか、どのツラ下げて来てんだみたいな。値踏みも値踏みですよ、完膚なきまでにダイヤモンドヒールやパンプスに踏み倒されて、路傍の石になって、おちおち撤退するビジョンしか見えないんです」
「そういう卑屈な中身はともかくとして、お前の顔は結構好かれるほうだと俺は思うんだけどな」
「そこまでヨイショしてまでぼくを街コンに連れて行きたいんですか?」
「ようし、分かった。お前の言い分はよおく分かった。そんなに街コンに行きたくないんだな」
とぼくのしたたかな屁理屈に納得したかと思いきや、吉岡さんはニヤリと笑った。なんなら街コンへの誘いはブラフだったと言わんばかりの表情だった。
「な、なんですか、その意味深な顔は」
「街コンが駄目なら俺と温泉に行こうぜ」
「おんせん?」
「そう。温泉」
ゴールデンウィークに?」
「そう。え、嫌なの?」
「別に嫌ってわけじゃ」
「じゃあ仕方がないなあ、温泉が駄目なら街コンに行くしかないよなあ」
吉岡さんはニヤニヤが止まらない。ぼくは完全に彼の手のひらで転がされていた。助けを求めて周囲を見回すけれど、みんな忙しそうな様子だった。遠目に西京さんが見えたが、ぼくのことは眼中になかった。
「予定ないんだろ。せっかく先輩が誘ってんだから一日くらい付き合ってもいいんじゃない?」
「ぐう。最初からこれが狙いだったんですね」
「本心を隠したがるお前の性格上、普通に温泉に誘っても断られるのは目に見えていたからさ。これが大人のやり口だよ、いい勉強になっただろ」
「お利口さんになりました」
「はい、温泉けってー」
この人、ポーカーとか駆け引きにめっぽう強いタイプの人だ。敵には絶対したくない。社内において交渉術が上手い人として吉岡さんが筆頭で上げられるが、その由縁を垣間見た気がした。
結局ぼく自身も手玉に取られたわけで、自分で自分の退路を絶ってしまったのだから文句も言えなかった。
かくしてぼくは卓上カレンダーの5月のゴールデンウィークの週に小さく温泉と書いていたのだけど翌朝見てみると、太い赤のマジックで『極楽満喫!湯けむり温泉ミステリー 〜男二人の本音旅〜』と書き換えられていた。ぼくはこれについて散々周りからいじられた上、その日に限ってぼくを針のむしろにした張本人は有休を取るという無駄に手の込んだ仕込みにもう呆れるを通り越してどうでもよくなった。
ともあれ、いっそばれてしまったら人間あっけらかんとしちゃうもので、ぼくは彼が書いた予定を消す気が失せてしまった。

この出来事からおよそ一週間後。
いよいよぼくは最後の物語の舞台である山形県蔵王温泉へと自らを投じていくのです。

いつもの癖で延々と書いてきた問わず語りは、長い回遊を終えて、ようやく無人島の砂浜にじんわりと打ち上げられようとしている。
今ぼくはもうこれ以上深く暗い海に戻らなくてもいい安堵感と、砂浜に上がればそこには誰かの助けを借りれないという不安とが混濁している状態で、実際のところ今が楽しいかと言われたらそうでもなかったりする。
それでも懸命に胸びれや尾ひれを使って茫洋としたこの海の中を“かいている”のは、辿り着いたときに得られる何かにそれなりに大きな期待をしているからだ。
あなたのために捧げてきた物語は、自分との対話でもあったし、あなたとの向き合い方を探る旅でもあったし、見方によっては後ろ向きな承認欲求を満たす行為だったかもしれない。しかしそれらをひっくるめて、共にここまで泳いできたあなたであるならば、いつかまた新しい物語に潜っていくのだろうとも予感している。
そして、今がまさにそのときだったりするのかもしれない。
ぼくたち哺乳類なのだからかならず息継ぎもしなくちゃいけないし、泳ぎ続けないと古い沈没船とおんなじ運命をたどる危険もあるし、つくづく大変だよなって思う。
このだだっ広い大海原のどこがゴールなのかもすらわかんない果てしない世界で、ほんとうは一生懸命に泳ぎ続けるきみの苦しさに少しでも寄り添うことができたらと思う。もちろんずっとそういうわけにはいかないのこともわかっている。
けれども、珊瑚が小さな光の粒子さながらの微かな卵を産むように、誰かの生み出したかけがえのないギフトはこの海の世界のあらゆるところに溢れかえっている。その中の一つでも多くがギフトが、法則に縛られないこの自由な海流を渡って、やがてはあなたの元に届いたらいいなと思うのです。
そういうわけで、さあ、ラスト。


夜中まで夜更かしして物語を書いていたからか、翌朝のぼくは寝ぼけまなこの状態で玄関で吉岡さんが来るのを待っていた。まぶたが重くて、ワニの閉じた口のように全然開かなかった。かつてのように毎日4時まで起きている生活はもう無茶があって、最近は深夜2時を過ぎたら勝手に眠りに落ちていることが多かった。
ぼくの住まいの隣は弁護士さんのお宅で庭先のハナミズキの花が咲いていた。それらを眺めつつ、あくびを手で押さえているところに吉岡さんの車はやってきた。彼の車はフォルクスワーゲン・ゴルフ。ボディは黒で、なんかあらゆる要素が吉岡さんっぽいなあと思う。助手席の窓が開いて、サングラス姿の吉岡さんと対面する。
「おはようございます」
「おはよう。それ、後ろに置いてたら?」
彼に指示されてぼくは荷物を後部座席に詰め込んで、助手席を開けた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。えっと街コンで良かったんだよね」
「違いますね。温泉です」
「そうだったそうだった」いつもの調子。吉岡さんの乾いた笑い。「じゃあ出発」
ぼくたちを乗せたゴルフは途中でコンビニに寄ったのち、ふわりと色めき立ったゴールデンウィークの街中を走り過ぎていく。平常よりも交通量が多く、警察車両も散見された。およそ30分かけて最寄りのインターを通過すると、山形県に向かう東北自動車道へと進入していく。
「こっからが長いんだよ。音楽でも流すか」
吉岡さんはカーナビをオーディオに切り替えると、ぼくに自分のスマホを手渡した。画面には彼のプレイリストが表示されており、好きなの選んで流していいよと勧められた。
マルーン5、オアシス、ローリングストーンズ、ブリトニースピアーズ。彼の世代を代表するアーティストが多く、そのほとんど、ていうかそのプレイリストに関しては全曲洋楽で構成されていた。
「俺が若いころって言ったらみんな洋楽ばっかり聴いてたんだよ。なんとなくさ、Jポップがダサいみたいに感じるシーズンがあるじゃん。そんときに聴き浸っていた曲集だよね」
「つまり吉岡さんが尖っていた時期ってことですか」
「まあ、そうだね」
吉岡さんはあご髭を手で撫でながら、含みのあるようすで肯定した。
「前も言ったけど俺は美術短大の出身で、その当時と言ったら就職氷河期だったんだよ。世間をなめてたちょっと絵を描ける程度の俺なんかさ、どこも相手にしないわけ。そしたら荒むんだよね、とにかく。しかも美術大学の学生とかはさ、アーティスト風情のヤツばっかりじゃん。でも大学を卒業した先の社会って彼らが目指す理想からは程遠い世界が待っていて。けれど就活はやっぱりしなくちゃいけない。そのジレンマに苛まれながらお決まりの面接アピールとか必死に考えるんだけどさ、いざ面接するとてんで相手にされない。そりゃそうだよね。自分たちが大学で必死で努力してきたことなんて向こうからしたら『だから何?』って一蹴されて終わりだもん。なんかそれがもうね、空回りしている可哀想な学生って感じでさ、自分たちが夢見て希望して大学に入学したのにそこでやってたことが全部否定されたような気分になってさ、わざわざ高い学費出してくれた両親とか一人暮らしは大変だろうって色々仕送りまでしてもらってたことが申し訳なくてなぁ」
吉岡さんの言うことがすごく分かる気がした。ぼくの世代はわりと社会全体の間口が広くなったころで、自分の専門ではない分野に関しても就職を勧められたことを覚えている。吉岡さんたちの就職氷河期の話は、聞けば聞くほど軍隊気質な社会のさまを浮き彫りにし、厳格なふるいにかけられる若い学生たちの苦労がしみじみと伝わってきた。
「面接をするために東京とか行ってさ、秋葉原駅の構内のトイレとかで身だしなみをチェックするとさ、もう鏡に写っている自分のスーツの似合わなさに涙が出そうになるわけ。美大の学生がスーツ着ることなんてまずないのに、就活になった途端いきなり着慣れていないスーツを着て人前で喋るんだよ。こんなあべこべをさ、みんながみんな必死でやってんの。そして落ちたとか次どうするとか傷を舐めあってさ。時期的には卒制とかも並行してやんなくちゃなんないのに、就活みたいなひたすら重くなる鉄球を抱えてまともな神経でいられるわけがないんだよね。俺は幸い人の縁があってうちの会社に拾ってもらったけど、周りの話聞いてたら相当な地獄を見たやつもいるし、地獄から抜け出せずに命を絶ったやつもいた。社会に殺されるっていうのは、表現でも誇張でもなく事実なんだなってそのとき感じざるを得なかった」
「ちなみに吉岡さんがうちに入ったのは何社目を受けたときだったんですか?」
「途中から数えるのやめてたから覚えてないよ。精神すり減って発狂寸前だったから」
吉岡さんは就活中は考えることをやめたと話した。考えたら何もかも上手くいかなくなるから、と理由をつけ足して。
「俺は実際、そこまでしてやんなくちゃいけない仕事がこの世にあるとは思わないんだよね。人間は自分の好きなことをして楽しく生きるのが本質だと思っているし、楽しくないときは自分がやっている仕事は本業じゃなく副業って感覚でやってたから」
「仕事は副業ですか」
「そ。生きるのが俺の本業。副業はてきとーでいいんだよ」
「じゃあ今回の温泉旅行は?」
「本業に決まってんじゃん」
吉岡さんがアクセルを強く押し込む。ゴルフは大きなうなりをあげながら、わりかし空いている東北自動車道の下りをすごい速度で走っていく。
天気は清々しいほどの快晴で、ぼくの気分は穏やかだった。気にかかることはとくになく、あえて挙げるなら西京さんの予定をまったく存じ上げないことくらいだった。
途中、大きめのパーキングエリアに寄って休憩を挟んだ。連休のため家族連れが多く見られ、屋台にもたくさん人が並んでいた。吉岡さんが奢ってくれた仙台の牛タンをつまみつつ、ぼくたちは再びゴルフに乗り込んで走り出す。
「そういえば。予定表書き換えたこと、ごめんな。お前と行けることにテンション上がってたんだろうな。つい魔が差した」
「いや、別に全然いいっすよ」
「そういえば、もう一つ。彩水ちゃんは結局誘わなかったんだ」
「え、彩水ちゃん? 吉岡さんって西京さんのこと彩水ちゃんって呼んでるんですか」
いろいろ詳細は省くが、すでに吉岡さんはぼくが西京さんに好意を抱いていることは理解している。理解っていうか見破られた。それがつい先日のことだった。
「彩水ちゃんって呼んでるよ。いけない?」
「マジかぁ。え、経緯を包み隠さず教えてください。場合によってはぼく次のインター降りて帰りますんで」
「お前の予想は違うから大丈夫だよ。ってか、単純に俺がふざけてストロンゲストさんって言ってたら怒られたんだよ。『人をお酒みたいに言わないでください』って。じゃあ呼び名決めようってことになって、彩水ちゃんになった」
「はあ〜、仲睦まじの田村麻呂なんですけど。なんすかそれー」
「お前も呼べばいいじゃん。同僚なんだし、もっとフランクにさ」
「ならぼくは彼女のことMTTって呼びます」
「えむ、てぃー、てぃー?」
「MTT(マジでただの天使)」
「お前がそれでいいなら、俺はもう何も言わない」
そんなこんなで、国内では最長と言われる東北自動車道をとにかく延々と北上し、村田JCT山形自動車道に分岐してからおよそ1時間。話をしているうちにいつの間にか眠りこけていたぼくを乗せたゴルフは、山形県山形市にそびえる蔵王連峰の西麓に位置する蔵王温泉に到着した。
蔵王温泉は近場に蔵王温泉スキー場を併設し、年間を通じて多くの人でにぎわう温泉街だった。ぼくらが訪れたときは天候に恵まれ、月山や鳥海山など銀雪の残滓が残る連峰を彼方に臨むことができ、ふだんの忙しない人々の喧騒を離れた風光明媚な土地がぼくらを迎えてくれた。
「着きましたね」
「あっという間に昼だな」
蔵王山に向かうなだらかな坂道に沿って多種の店が立ち並んでおり、浴衣姿や甚平を着た人々がお土産の袋を提げて食事処に入っていく光景がよく目についた。
ぼくたちは観光所でパンフレットを手に入れ、二人で相談した結果、温泉街の中腹にある露天風呂が有名な温泉に行くことになった。
そこは木造の温泉施設で、外装こそ古いものの内部はリニューアルしたばかりの明るい風合いをしており、生き生きとした檜や松の郁々しい匂いが湯上りの硫黄の残り香と混じって独特な雰囲気を漂わせていた。ぼくたちは受付で限定タオルを購入し、脱衣所に進んだ。脱衣所はそれなりの広さで、小さな子どもから腰の曲がったおじいさんなど多くの人が裸になっていた。ぼくは適当なかごを見つけ服を脱ぐと、地元の言葉で世間話をしている老人二人の横を通り過ぎ、隙間から湯気が流れ出している引き戸をガラガラと開けた。
広がっていたのは、清冽な空の青さと爽やかな森林に覆われた大露天風呂の景色だった。季節は初夏で、早緑のイロハモミジやカツラなどが東北の涼しげな風にそよいで、かさかさとなびいていた。新緑にすっぽりと覆われた大露天風呂は外側と内側がチャコール色の仕切り版で区切られており、外側には川が流れ、上流から下流に沿って河原が敷かれていた。
足元は薄い石板が湯船に続いており、温泉のミネラル分でぬめっていた。走ると滑って危ないので絶景の景色に興奮している小学生くらいの子どもに注意している父親の姿があった。湯船にはだいたい10人くらい浸かっていて、目を閉じている人や、手で掬ったお湯で顔を洗う人、仕切り板に手を添えて川の景色をのぞき込む人などがいた。
裸で突っ立っていると肌寒くなってきたので、ぼくは適当なスペースを見つけて湯船につかった。気の抜けたため息とともに、日々蓄積した身体の痛みやコリが揉みほぐされ、湯船に疲労感がじわじわと溶けていくような気がした。ちょうどよい湯加減でだらしなく口を開けていると、鼻の奥に硫黄やミネラル特有のにおいが入り込んできて、なんとも言えない心地になった。
まもなく吉岡さんもぼくを見つけると隣に入ってきた。ぼくは首元まで湯船に浸かっていたため、吉岡さんが入ったことで起きた波がぼくの鼻に入ってつんとした。
「ああ、悪い。眼鏡がないと距離感がつかめなくて」
「眼鏡じゃない吉岡さん初めて見ました。は? え、てか、かっこよ」
裸眼の吉岡さん、すごくいい。ほんとうに、ほんと。眼鏡でイケメン認定される人が裸眼もイケメンじゃないわけがなかった。眼鏡も眼福、裸眼も眼福、すなわちウィンウィン。
「なんで街コン行かなかったんですか」
「本音のお前と話がしたかったからだよ」
「本音ですか。どういう類の本音かにもよると思いますけど」
「んー、そうだなあ」吉岡さんは手で掬ったお湯に写る自分のぼやけた顔を見つめがら、しばし考える。「家族のことかな」
モミジの葉っぱやちっちゃな黒い虫が浮かぶお湯は透き通っていて、穏やかな悠久の時間が流れる水上のコテージから眺めるモルディブの海の色をしていた。
「家族ですか」
「お宅、人当たりはいいのに家族の話とか子どものころの話とか聞こうとすると、露骨に避けようとするでしょ」
まあ確かに。
「理由とかあるんだろうけど、人が話題にしやすいテーマでお前みたいにあからさまなバリアを張られたら、こちら側は手の出しようがないというかさ、自分と話をする気がないやつなのかなって思われても仕方がないんだよね。もしお前がそういうつもりじゃなくても」
家族が嫌いなら嫌いでもいいが、それならば嫌いと言ってくれた方が助かると吉岡さんは話した。ぼくはそこすらも曖昧に濁すから、踏み入っていい境界を見極めるのが難しいらしく。
「以前、お前が手に包帯を巻いてきたときにも理由尋ねたらはぐらかしたこと、俺が怒ったことがあったろ。今思うとあれもそうなった原因に家のこととかあったんじゃねえのかな、って考えたりしたわけ」
「……」
「俺は先輩だからお前のことも心配するよ。怪我なんて以ての外だし、それでも話したくないなら話したくないです、って言えばいいんだよ。でもたぶん、お前のその無言だったりとかすぐばれる戯言でお茶を濁すのは、相手に話してしまうことが自分を赦してしまうことになるっていうか、相手の言葉によって深く考えている自分の自尊心が傷つけられることが怖いからなんだと思うんだよね。こんなにもたくさん考えているのだから、誰にも共有されなくていい。誰にも理解されない内容なんだから、話す必要がない。そういうふうにお前は思っているんだろうと俺は考えているのよ」
吉岡さんのその言葉にもぼくは無言を貫いた。あえて反応しなかったのは、その先にも彼の言葉が続くことも理解していたからだし、もっと言えば有り体に図星だったから。
「家族のことなんてどこも色々あるのが当たり前なんだから、理解されようと思って話しをすること、聞くこと自体おこがましい気がするんだけどね、俺は。理解できないときは、あーそれはちょっとよくわからんわ、って言うし。だからもうちょっと楽に話してもいいんじゃない?」
「善処します」
「社会人の言う善処しますは、何があってもやり遂げることだと覚えおくんだね。おっけー?」
ぼくはしばらく間を置いたけど、最終的には頷いた。
「で。あのときの手の怪我はいったい何があったわけ? 深く傷ついているならいざ知らず、もうすっかり完治したったんだから話してもいいんでない?」
「まあ、その、なんです。話せば長くなります。吉岡さんのおっしゃる通り、あの怪我は自業自得だったけど、元をたどれば家族が絡んだことだったので」
「家族っていうと兄弟? 親?」
「兄ですね」
それと、いとこ。チハル。
「ふうん、ま、自分のペースで話してごらん。温泉なんだから緊張もしないでしょ」
そういう促しがあって、ぼくは当時の怪我のきっかけとなった兄のFacebookでの投稿と、それに関わるチハルのことについてたどたどしく話始めた。
吉岡さんはぼくが入社してから一番最初に可愛がってくれた人で、以後それなりによく話をしてきたけれど、チハルのことをちゃんと話すのが今回が初めてだった。
いとこだけど、チハルは兄弟以上に兄弟らしく、家族以上に家族らしかったこと。クジラの絵を見て、二人とも頭を傾げていた記憶が強く思い出として残っていること。交通事故のこと。それからの彼女の生活のこと、ぼくの心のこと、大学から現在にかけてのこと。吉岡さんに話せば話すほど、幼いころは触れられる実体だったチハルが、年齢を重ねるとともに、とくに事故に遭ってからは、存在そのものというか概念のようになっていたことにぼくは驚きを隠せなかった。正直ひどいショックを受けた。彼女のことを闇雲に考えすぎた結果、積雲に突入した飛行機みたいに正しい方向がわからなくて、不安定な気持ちのままで、その実ぼく自身は何にも変化していなかった。
ところがそうなったことさえ、吉岡さんはぼくのことを否定したりはしなかった。

「今のお前は物理的に離れているし、それでもチハルちゃんのことをしっかり考えているならそれは何も間違っていないし、立派だと俺は思うよ。なんならチハルちゃんはすごく幸せだと思うんだよね。本来ただのいとこでしかないお前やお前の兄貴にそんだけ長い時間大事にされてさ、それって実際すごいことなんだよ。お前はまだ気づいていないだろうけど、チハルちゃんの命を今も息づかせているのは、間違いなくお前らの思いだからな。そういう誰かの途轍もない思いを前にすると、やっぱり介護もやめるわけにはいかないんだよ。遠くにいるお前がいつか帰ってきたときに、またいつも通りチハルちゃんに会わせてあげたいからお前の家族も交代々々で必死に頑張るんだよ。だから、そういう行いを不毛なんて言っちゃいけないんだ、絶対に」

ぼくは、吉岡さんの言葉になんだか涙が出そうになる。後ろめたさを感じていた自分の心の在り方がちょっぴりでも赦されたような気がして、胸に温かさを覚える。温泉に入って気持ちがほぐれているからか、吉岡さんの言葉を素直に受け入れることができていた。
「お前はずっとこれからもチハルちゃんのことを思うし、向き合い方について死ぬまで悩みあぐねるはずだよ。でもその悩むことが家族の一員としての正しいかたちだと俺は思うね」
「ぼくもそう思います。そう思いたい」
新緑に覆われた初夏の風景は、爽やかさと同時にこれから到来する蒸し暑い夏の訪れを匂わせ、この先もまだまだ多くの出来事が試練のようにぼくの前に立ちはだかるだろうことを予感させた。
ゴールデンウィークが終わってしまうと、いよいよ手持ちの水族館のポスター制作についても、長瀬さんあたりから進展を期待される電話が鳴ってくるだろうと覚悟している。今回の温泉日帰り旅行が終われば、もうぼくの予定は空白になってしまう。現在検討中のレイアウトについては、以前ぼくが手掛けたものをアレンジしただけのものだった。まだまだ休みがあるのだし、自分の発展を期待して、美術館や図書館を巡って新たなアイデアを練って想像力の幅を広げるインプットを行うのも良いかもしれない。
自分の家族の話(ほとんどチハルのことだったけど)をして一区切り着いたぼくたちは、せっかく山形まで来たのだから、ともうひとつ別の温泉にも寄って満喫した。やがて日が沈み、温泉街のライトが灯りだす時間帯になったので、ぼくたちは再び山形県から数時間かけて帰路に着くことにした。途中パーキングエリアで夜ごはんを食べたりもしたので、家の前で降ろしてもらったのはようよう夜10時を過ぎる時刻だった。
ぼくはお世話になった吉岡さんに深謝してゴルフを見送った。その日は温泉に二回も入ってしまったので、ゆっくり眠ることができた。眠りにつく間、いろいろ吉岡さんとの話のこととか、チハルのこととか、西京さんのこととかを代わる代わるグルグルと考えてしまった。この三つの渦潮の中から抜け出すことは容易ではなく、今の自分はそれだけ彼・彼女たちのことを大事に考えているのだなあ、と思い至った。そうすると、いつしか西京さんと話したときのことが思い浮かんで、同時にあることを閃いた。
翌日からぼくはその『絵の制作』に取り掛かった。毎日毎日部屋にこもって一生懸命描き続けた。この数年の中では一番頑張っていたかもしれない。そのぐらいのものを作りたかった。
創作とは思いの具現化だ。
ぼくはできる限りさまざまなことを思い出しながら、思い返しながら、思い過ごしながら、思い残しながら、思いやりながら、思い描きながら、思い直しながら、思い悩みながら、その絵を描き切った。
創作に深く潜水するとさ、浮上したときに深海の圧力と地上の圧力の差に身体がついていけず具合が悪くなることがある。人と話すときどんな感じだったっけとか、食事ちゃんと取ってたっけとか一時的な健忘が発生したりして、それはまるで心臓の皮を一枚一枚剥がす行為に似ていると個人的には思っている。そこまでしなくちゃいけないのかと常々自問自答するわけだけど、どうせ止められないんだよね。
止められないところまで来ちゃったんだから、仕方ないよ。
だからあと少しだけお付き合いをどうかお願いします。


雨は鈍色。どんよりしたお日柄の今日、ぼくはポスター制作を依頼されていた県立の水族館にやってきていた。ようやく成果品が完成したので、実際に運んできた次第だった。
リニューアル真っ最中の現在、立方体の外観の天井にはブルーシートがかけられていた。工事業者の鉄骨の足場は雨垂れに打たれ、ぱちんぱちん、ぴちゃんぴちゃんと音を響かせている。ぼくは事務所から借りてきていた荷台を車から降ろし、数種類のポスター数百枚をいくつかの袋に分けて荷台に乗せた。また、それらとは別にぼくが休みを利用して取り組んで描いた絵が一枚あり、そちらは額縁に入れて防水性のシートに包んで荷台に乗せた。絵の方は額縁がついているのでそれなりに重さがあり、ぼくは傘を差しながら水族館の入り口に荷台を押した。
玄関先のインターフォンで名前を名乗ると、ほどなくして担当者の長瀬さんがいつもの作業着姿で現れた。リニューアル工事中は生き物の飼育だけでなく、新しい企画の提案や市政への広報活動など多岐にわたってお仕事をされていたらしい。
「ああ、どうもどうも。わざわざ持ってきていただき感謝します。いやあ見ての通り、内装工事はずいぶん進みまして中央部の新しいアクリル水槽には引っ越しをした生き物たちが悠々泳いでいるんですよ」
長瀬さんとは久しぶりの再会だった。毎度ながら彼の豊富な生き物の知識や想像力のお話でぼくはおなかいっぱいになって、なかなか本題の話をするまでに時間がかかった。
ぼくはひとつお願いがあるのですが、と前置きをして長瀬さんに向き直った。
「実はその、今回、誠に勝手ながら絵を描いてきたんですけれど、もし可能だったらこちらで飾っていただけないかと思いまして」
そう言って、荷台の上で一際存在力を放つシートに包んだ絵にぼくは目配せをした。その視線で長瀬さんも気づいて、慌てたように首を縦に何度も振った。
「あ、いや! それはもう、全然! むしろあれだけの我々のリクエストに応えていただいた上に付け加えて飾っていただけるのであれば、大々々歓迎です」
「御厚意に感謝します」
「ちなみにお金なんていうのは」と長瀬さんはぼくの顔色をうかがうように尋ねてきた。おそらくリニューアル費用の予算の関係で契約額以上のお金は出しにくいという判断があったのかもしれない。彼の表情はやや曇ったが、ぼくは最初からお金のことなど考えてはいなかった。
「いいんです。これは自分の満足のために描いてきたものですから」
「よろしいのでしょうか」
「ええ、むしろ勝手な都合を押し付けているのはこちらなので」
長瀬さんは深々と頭を下げた。つむじのあたりが薄白く禿げていて、彼の苦労が見て取れた。
ぼくの絵の展示場所については、前回来館した際印象に残っていたクジラの腸が飾られた二階の展示コーナー部屋を希望した。というかそこじゃないと意味がなかった。
中央のアクリル水槽をぐるりと取り囲む螺旋状のスロープは一階から二階に連絡しており、そこから通路が伸びており、両側にはさまざまな生き物がショーケース内に展示されていた。通路の上部にはスピーカーがあって、実際の海中の音がぼこぼこ鳴り続けていた。それを聴いているとトドの胃の中にいるような心地で不思議と気分が落ち着いた。
お目当てのクジラの腸は改めて見上げると圧巻のたたずまいで、いやさか前回見たときよりも腸の太さが増している気がした。長瀬さんは内側を特殊な液で満たすことで大きく見せているのだと教えてくれた。アクリルケースの右側に付属されたモニターには砂浜に打ち上げられたマッコウクジラの遺骸が解剖される様子が映されていた。胃の中からは誤飲したビニール袋やロープなどのゴミがおよそ30キロ出てきたという紹介があり不法投棄の禁止を促していた。
その映像をぼうっと眺めていると、長瀬さんから絵の展示の指示を求められた。相談の結果、ぼくはアクリルケースの左側のスペースを利用させてもらうことになり、長瀬さんが近くで内装作業をしていた従業員の方を何人か招集してその場で飾っていただけることになった。
絵を保護していた防水性のシートを剥がすと中から額縁におさめられたぼくの絵が姿を現す。どんなリアクションをされるかぼくは内心どきどきしていた。その絵を見た長瀬さんは最初は驚きや新鮮さ、絵の細かさに感嘆を漏らしていたが、やがて熱いほうじ茶を飲んだときに出るような蕩々としたため息をついた。一緒にいた従業員の方たちは矯めつ眇めつ見物し、しきりに凄いだのやばいだの感想を口にした。
「いやあ、これは。うちで飾るにはあまりにご立派が過ぎますよ。ほんとうにいいんですか」
「はい。是非によろしくお願いいたします」
長瀬さんは重ね重ね頭を深く下げると、彼の指示で従業員の方々に絵の取り付けを行ってもらった。その際、青年二人が率先して動いてくれたが、“飾る絵の方向が違っていた”ので正しい向きに訂正させてもらった。青年らはきょとんとした表情でぼくの指示に従ったが、釈然としないようすだった。同様に長瀬さんもこれでいいんですか、と念押ししてきたが、ぼくは「この方向で合ってます」と強くうなずいた。
実際に絵を取り付けたあと、みんなで後ろに下がってその絵を眺めた。彼らは顔を見せ合わせ首を傾げていたけれど、ぼくにとっては彼らの感想や意見などはどうでも良かった。

自分の思いを為し遂げた。この事実がぼくにとってもっとも重要だった。

水族館での用事を終えて車内で一人になると、ぼくの身体に残ったのは射精後の余韻に似たグルーミーな倦怠感だった。何も考える気にならなくて、雨音を聴きながらしばらく呆けていた。FMラジオをつけると、ちょうどパーソナリティが締めの挨拶をしていた。
『では今週はこの曲でお別れです。——くるりで「ばらの花」』


事務所に帰ったら終業時間は少し過ぎていた。その日はノー残業デーだったので職員は誰もいなかった。ぼくも荷物をまとめてすたこら帰ろう。そう思っていたのだけど、
「オハラさん、お帰りなさい」
ぼくを待っていたのは西京さんだった。
「ただいまです。まだ仕事してたんですか」
「さっき集中力切れたんで、もう今日はいいや」西京さんは伸びをすると仕事のときだけ付けているブルーライトカット眼鏡を外した。「水族館の業務は一応今日で完了ですか」
「報告書作らないといけないけど、とりあえずは完了かな」
「それはそれはお疲れさまでした。珈琲でも作りましょうか」
「じゃあお願いします」
西京さんは鼻歌を歌いながら給湯室に消えていった。
ぼくは一人になった途端、急にそわそわし始めた。一見落ち着いた装いをしているつもりだけど、その実西京さんと二人っきりのシチュエーションという状況を前に、ぼくはどきまぎ、心の中では大喝采のパレードがどんちゃん騒ぎしていた。
うふふ、西京さん、うふふ。
「何をニヤニヤしているんですか。いいことでもありましたか」
ぼくのデスクに西京さんが珈琲を置いてくれた。
「ないよ。ないない。ぼくの人生、悪いことの次にもっと悪いことがあって、そのあとちょっといいことあると、すぐさま悪いことが将棋倒しみたいに降りかかってくるんだから」
「悲観的ですねえ」
「現実だよ」
「えー? じゃあ今は?」
「いま? 今はぁ、まあ、悪くは、ない、かな」
「つまり?」
「悪くはない」
「つまり?」
「悪くはない」
「悪く?」
「はない」
「悪くないじゃなくて?」
「そう。あくまで悪く、は、ないだから」
西京さんがしかめっ面をしている。はっきり言え、とでも言いたげな表現だった。ぼくも本心は欣喜雀躍しているけれど、そこはなんといいますか、二人だけの雰囲気を楽しみたいというセセコマシイ精神がはたらいていて、見つめ合うと素直にお喋りできなかった。というか単純に小心者なのだ、ぼくという男は。
「そういえば今日オハラさん、事務所の荷台持って行ってましたよね。そんなに大きい荷物運んだんですか? ポスターだけじゃなかったでしたっけ」
「いろいろあってね、水族館に自分の絵を飾ってほしいという欲望が湧いてきちゃってさ。無茶を言って飾らせてもらった」
「公私混同じゃないですか」
言われてみるとその通りだった。でも別にお金取ってしたことじゃないのだし、情状酌量の余地は十分にある。もし撤去するよう頼まれたら、実家に飾ればいいだけのことだ。
「ちなみに何の絵を描かれたんですか」
「クジラ」
「くじら? なんでまたくじらを。っていうかくじらって水族館にいるんですかね」
「いなかったよ」
あったのは腸だけ。
「それでもくじらを描きたかったんですね」
「どうしても」
そう。どうしても。
「へえ、そうですか。その水族館がリニューアルオープンするのっていつの予定ですか」
「今年の夏、8月のお盆休みから」
「じゃあ一緒に行きましょうよ。わたし、オハラさんのくじらの絵が見てみたい。というか普通に水族館に行きたい」
「うそ? 本気?」
「そう。え、嫌ですか?」
「別に嫌ってわけじゃ」
あれ。なんだか前にも他の人に似た質問をされた気がする。
「なら、いいか悪いかで言うと?」
「悪くない」
「そこは悪くはない、じゃないんですね。君のことはよくわからないなあ」
西京さんは眉を八の字にして腕を組んだ。
「ともあれ水族館は一緒に行くってことでいいですよね」
「どうかお手柔らかにお願いします」
ぼくは深々と頭を下げた。ほんとうにありがとうございます。ありがとうございます。
「ついでなんで、今日夜ごはん食べに行きませんか? オハラさんの仕事完了をお祝いしましょう」
西京さんの突飛なお誘いにぼくは少々まごついたけれど、せっかくなので彼女の提案にあやかることにした。二人で話し合った結果、ぼくと西京さんに加えて吉岡さんも呼んで三人で食事をすることになった。思えば三人でごはんを食べたことは記憶の限りにはなくって、あまつさえ三人一緒にいる状況すら非常に珍しかった。今考えると不思議だけども、二人ともぼくの尊敬する面白い人たちだし、その人たちと一緒にいられる時間は素晴らしく貴重なものに違いない。
欲を言えば、ほんとうはそこにもう一人、あの子がいればこれ以上の幸福はないのだ。けれど、いないからと言って消えたわけじゃない。彼女はいつもそこにいるし、遠く離れていても今だって生きているし、ぼくの思いのために生かしてくれる人たちがいるし、何より水族館に行けば会うことができるのだ。そこに行くことでより鮮明に彼女との思い出の輪郭が浮かび上がってくるし、思い出をふりかえるたびにぼくは彼女と向き合い、途切れないしるしを互いに繋ぎ合うのだ。
それこそがぼくの思いのすべてだ。
「オハラさん、吉岡さんに電話したらすぐ行けるそうです」
西京さんがぼくに満面の笑みを向ける。ぼくは呼応するようにうなずく。
「じゃあ近くのお店に予約するけどいい?」
「はい、お願いします」
「三人だよね。ううむ、どんなのがいいだろうか」
「なーにとぼけたこと言っているんですかオハラさん。そんなの最初っから決まってるじゃないですか!」
西京さんは写真コンテストで特別賞を受賞したときにも見せなかったほどの自信たっぷりな表情でこう答えた。
「焼肉ですよ! 焼肉!」


エピローグ・その1

お盆休みは実家に帰った。兄を含めた家族4人でうなぎを食べて、ぼくは仕事の話や山形県に日帰りで温泉に行ったことなどについて話した。MTMの兄はやっぱり相変わらずで、県庁の近所にある公共職業安定所にときどき通っているらしい。でも就労前の職業訓練が必要だから、など到底理解しがたい口実をつけて、現在もなお家のごくつぶしとして大いに親のすねを齧っていることがわかった。親は何も言わなくなったし、ぼくも彼に手向ける言葉は一切なかった。
好きに生きて、好きに死ねばいいのだ。それもまた人生。吉岡さんの言葉を借りるなら、それも本業なのだ。だからどうなろうが手出しも口出しもしない。
日中は時間があったからチハルが入院する施設に出向いたりした。彼女に会うのは実に2年ぶりくらいになっていたかもしれない。ときたま母親からチハルのようすが撮られた動画が送られてくることはあったが、生身のチハルはすごく久しぶりな感じがした。
チハルはこの頃は夏バテの影響なのか、下痢をよくするらしい。二人でいるところに血圧の測定やお薬を溜飲させる看護師さんがやってきて、日ごろの状況を教えてくれた。
ぼくが彼女のいとこであることを伝えると、どうやら看護師さんはぼくのことを聞き知っていたらしい。ぼくの家族がお見舞いに来るとそういう話をしていたらしい。県外の広告制作の会社で仕事をしていて、なかなか連絡を寄越さないだとか、食事は外食が多いとか、そんな感じのこと。
半年くらい前、チハルは肺炎になった。自分で食事ができない人は、ものをうまく飲み込めなかったりすることがあるから、それが気道に詰まったり圧迫することで呼吸困難になったり、咳が続くと肺炎にもなるらしい。元より免疫力が低下している身なので、重篤ではない疾病が最終的には死に至らせることも少なくない。チハルはその後恢復はしたけれど、以前に比べると弱ってしまった。
チハルの色素の薄い腕をつかむと肉質はあまりなく、手を握ると反射で指を曲げるけれど力はほとんど入っていない。口は少し開いていて、目は閉じっぱなし。鼻には呼吸のためのチューブが伸びていて、ベッドのそばには酸素ボンベが置かれている。見慣れているとはいいつつも、目の前にしてみるとチハルの姿はお粗末にも生き生きしているとは言い難かった。
ともあれチハルが生きていて実際に会える間はぼくの思いが草臥れることは絶対にないので、彼女にまごころを与えられるときは精いっぱい力になろうという気概はぼくも持ち合わせている。
ぼくはスマホを取り出し、チハルとのツーショットを看護師さんにお願いした。
ああ、これでぼくもあの馬鹿と何にも変わらなくなってしまったな、と落胆したが彼女のことが可愛くて仕方ないのだから、ぼくは素直に認めた。
看護師さんがいなくなって、ぼくはチハルの頭を撫でながら、いつもお世話になっている吉岡さんや西京さんのことについて語りかけた。

あの人たちはとても良い人だよ。
ぼくのことを認めてくれるし、ぼくたちのことも大事に考えてくれている。
ぼくはもちろんチハルが大事だけど、今はね、どちらかと言えば彼らのほうが大きな存在になってきているんだ。
間違いなく。
ぼくも寂しくなるとときどきそこに寄りかかってしまいそうになって、ぼくは君のことを考えながらしっかりしなくちゃって戒めるのだけど。
そんなことを考えると、ふだん遠く離れているチハルのことをいつでもそばに感じるにはどうしたらいいんだろうって考えあぐねてしまうんだ。
いろいろ悩んだりしたけど、西京さんや吉岡さんの助言を借りた結果、ぼくは君のことや君との思い出を自分の好きな絵に昇華することにした。しかもその昇華した絵は、ぼくが住んでいる県の水族館に立派に飾られているんだ。
そこに来た人はたぶんその絵を見て、思い思いの感想を抱くのだろうと思う。
誰も彼も、作者がどんな意図を以て描いたのかなんて知る由もない。でもそれでいい。その方がいい。
ただ、唯一。君だけが作者の思いを理解してくれたらいいなと思う。
だからね、ぼくはそのとき描いた絵をそこの棚の上の写真の隣に飾ろうかなと思って持ってきたんだ。小っちゃめだけどね、いつでも見えるところに置いておくよ。
ああ、いいね。よくないかな。
いろんな写真と並べるといい感じに映えるでしょ。
今日は君にこれを見せることが目的だったからさ、達成できて良かったよ。
ぼくはもう帰るけど、またこっちに来たとき会いに来るよ。
必ず。
チハル、またね。
どうかお元気で。


エピローグ・その2

八月最後の週の休日、ぼくは西京さんとの約束通り二人で水族館にやってきた。リニューアルしたばかりで人足も上々、長瀬さんも喜んでいるに違いない。
長瀬さんとは今回の仕事をきっかけにすっかり仲が良くなって、年間パスポートを特別に作ってもらった。子どもたちは夏休み最後の土日だから数も尋常ではなく、受付には長蛇の列が見えた。ぼくは年間パスを持っていたので、うだる暑さの中受付に並ぶ人々を横目に水族館に入ることができた。
「なんだか悪い気がしちゃうね」
長い黒髪を後ろで結った西京さんはぼくの隣を歩きながら、今日もお馴染のレモンのにおいをふりまいている。
「仕事を頑張ったご褒美だからぼくは積極的に甘んじるよ」
わたし、何にもしてないからなあ、と言いながら西京さんはペットボトルの水を飲んだ。
ぼくたちは中央部にそびえる巨大なアクリル水槽をしばらく見たあと、仕事で携わったポスターが展示されている各ブースに立ち寄った。西京さんはぼくの作ったポスターを見ながら、ああだこうだ言っており、ぼくもそれに対してやいのやいのと応戦し、ぼくたちの議論は丁々発止続いた。
いよいよ互いの主張が堂々巡りし始めたので、ぼくたちは休戦としてクジラの腸の部屋に向かうことになった。
「今日一番の楽しみ。じっくり見させてもらうからね」
「絵の感想については、悪評なんか聞いたら興が冷めてしまいそうなので、仕事のときにお願いします」
「はいはい」
そういうわけでぼくたちはクジラの腸にお目にかかった。圧倒する腸の迫力に中央アジアを一人で旅行したさしもの西京さんも口をぽかんと開けていた。ちなみにクジラの腸の部屋にはあまり人がいなかった。おそらく腸の実物が放つ生々しさが人の好みをはっきりと分断したからだろうと推測した。
だから邪魔されずに腸を拝見することができた。
「でっかいねえ。はあ、すごい」
「おったまげるよね。これで300メートルあるらしいよ」
あべのハルカスと一緒じゃん」
「そう。あべのハルカスと同じなんだよ」
「で、例の絵はどこに。あ、これか」
ここで西京さんがぼくの描いた絵に気づいたので、ぼくは彼女をその場に残して5メートルほど後ろに下がって、その背中を眺めることにした。
ぼくから見える景色は、正面上部、薄暗い照明に照らされるぼくの描いたクジラの絵、真ん中、絵と自分を結んだ線上に西京さんが立ち、彼女はその絵をじっと見上げている。余白、ぼくと彼女の間を来館者が過ぎ去る、立ち寄る、留まる。人々の声、適度。
その景色は一種のアクアリウムで、ぼくは不思議な感覚になった。
西京さんは微動だにせずその絵をほんとうにずっと見ていた。ぼくの存在などつゆほども気にしないで、まるで作者の真意に迫るかのような出で立ちだった。
時間にして数分のできごとだったそれはようやく終わり、彼女はバッグを肩にかけ直してこちらに近づいてきた。
その際、ぼくは確かにこの目で見た。
西京さんと入れ替わるようにして、小学校低学年くらいの男の子がぼくの絵を見上げている姿を。
そこにもう一人、兄弟なのか、友達なのかわからないけれど、同じ背丈の女の子が男の子に隣に立って、二人が並んでぼくのクジラの絵を見上げていた。
そう、あのときのぼくたちと同じように頭を直角に曲げた姿で。その瞬間、二人に鮮明な面影が優しく絶え間なく重ね合わさる。

ああ、これだ。この景色だ。
ぼくはこの景色が見たかったのだ。

二人は何かを話しているようだったけど、人々の話声に紛れて聞き取れなかった。だけど、その二人を後ろ姿を眺めているだけで、ぼくはもう胸がいっぱいになってしまって、言葉が出なくなってしまった。目と鼻の奥がつんと痛いのを感じる。西京さんが何やら声をかけてくれるのだけど、なぜだか何も聞こえてこなかった。
それからのことについては、記憶があまりなかった。気づいたらぼくと西京さんは水族館の外にいて、炎天下のアスファルトから離れたところの藤棚に囲まれたあずまやで涼んでいた。物音を遮断するほどの大音量で蝉たちが忙しなく鳴いていた。ぼくの手にはお茶のペットボトルが握られており、口の中はひどく乾燥していた。なんだか時間がトリップしてしまった感覚に陥って、隣でiPhoneをいじる西京さんに声をかけた。
「あ、起きた。大丈夫?」
「うん。あの、えっと」
「喉乾いてるでしょ。それ飲んでいいから」
そう言って、西京さんはぼくの握ったお茶を指した。
事情を聴いてみると、ぼくはクジラの腸の部屋で嗚咽が止まらなくなったらしい。西京さんにはその原因は分からなかったが、人が段々注目し出したので、ぼくを連れて水族館に引っ張り出してきたらしい。ほど近いこのあずまやに座らせると落ち着いたのか、そのまま寝てしまったらしい。そして目が覚めて今に至る。
「迷惑をかけたんだね。ごめん」
「いいよ、そういうこともあるよ。あのクジラの絵が関係しているんだろうってことはわかったけど、それがどうして君をああさせたのかはわかんなかった」
「ぼくにもわかんない」
「ううん。君はきっとわかっているはずだよ。ただ言いたくないだけ」
「本当は、わかってた。でもどうしてもあそこで感情を抑えることができなかった。ごめん」
「謝ることはないよ。感情を抑えられないほどの何かが君を襲ったのだとしたら、きっとそれはとても大事なものだよ。だからむしろ大切にしないと」
「うん、そうだね」
西京さんの言う通りだ。ぼくはあのとき見た景色はずっと大事にすることを誓った。
「つまりそれはとてもいい景色だったんだね」
「ぼくが一番見たかった景色だった」
「君はそこに辿り着いたんだ。すごいね、おめでとう」
「ありがとう」
「せっかくだし、その景色に名前をつけてみたらどうかな。名前を付ける行為はさ、思いを刻み込むことだから。名前がないとどんな物語も完成しないんよ」
たとえ、その写真は二度と撮ることはできないとしても、忘れられない景色なら写真と同じだしね、と西京さんは笑って教えてくれた。
「ぱっと言われたら何にも思いつかない凡人なので恐縮ですが」
「頑張って絞り出して」
「じゃあ、そうだな。こういうのはどうかな──」