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三題お題小説 ひゆき

 鳴り響く鐘の音にゆっくりと瞼を開く。窓から差す光にはっと体を起こすと、ごちりと頭に鈍い痛みが走った。
「ありゃりゃ、大丈夫?」
 先輩のアーミラが下の段から、やれやれといった表情でこちらを見上げていた。
 ここにきてもうひと月経つが、故郷より少し早い朝に頭はそう簡単に慣れてくれない。
「おはようございます。先輩」
「はい、おはよう。早く身支度して食堂行こっか」
 オリーブのパン無くなっちゃうよ、と先輩は引き出しから二人分の仕事着を引っ張り出した。

 ここベハリは砂漠に囲まれたこの国で唯一、砂鯨が泳ぐ街である。
 砂中深くを泳ぐ砂鯨は尾の揺らめきで熱を生み出す。熱は岩盤のさらに下を流れる水の温度を上げ、地上に湧き出る頃には人々が湯浴みをするのに適した温度になるのだ。そのためこの街では温泉を主体にした観光事業が栄えており、毎日多くの人々が身体を清めるために、また心を癒すためにここを訪れる。
 鯨が水の神として称えられているようにここベハリでは砂鯨が温泉の神として称えられており、また最近では駱駝車を走らせ砂漠から噴き出す砂煙を見に行く「デザート・ホエールウォッチング」なるものが行われていると先輩から聞いた。
 しかし、私がこの街にいる目的は温泉でもデザート・ホエールウォッチングでもない。出稼ぎだ。
 温泉のお陰で栄えており、人手が足りないベハリには私のような者が少なくない。私も、そして先輩も、この街にある大きな温泉宿のうちのひとつ、ラヴァハラで下働きとして働いている出稼ぎ労働者だ。
 家族が満足に食べていけるだけのお金を手に入れられる仕事はベハリのような大きな街にしかない。親は里に残って農耕作を行い、大きくなった子は弟や妹のために大きな街に出稼ぎに行く、というのがこの国の村々では当たり前のことだった。
「ねえムーナ。今日の仕事はなにかな?」
 食堂の列に並んでいる途中で先輩に尋ねられ、反対側の壁に貼られた勤務表を見る。
「午前は大廊下の雑巾がけ。午後は庭の手入れと、今夜行われる宴会の給仕だそうです」
「はー、雑巾がけか。昨日の階段掃除で足パンパンなんだけどな」
「しょうがないですって。それに午後が宴会の給仕なら、御馳走のおこぼれにあずかれるかもしれませんよ!」
「確かに。この前つまめたあまーい緑の果実、また出てこないかなぁ」
 それがあるなら頑張れる、と木皿に煮豆を盛る先輩。そうですねと相槌を打ちながらお盆に二人分、平たいオリーブのパンを乗せた。
 先輩と向かい合うように席に着き、煮豆を一口。トマトと一緒に煮込まれたそれは柔らかく、 住み込み寮の食事としては十分すぎるほど美味しい。オリーブのパンに乗せると、パンの甘さとオリーブの風味が程よい調和を生み出している。先輩曰く、客に出すために仕入れた食材の中から余った物をこちらに回して調理しているため、常に一定以上のクオリティが保たれているのだそうだ。
 私達が下働きの頭役に話しかけられたのは、食後のヨーグルトを食べている時だった。
「アーミラ、それとムーナ。今日の午前は買い出し役を頼まれてくれないか」
 ヨーグルトに乗った糖蜜漬けのイチジクをぼんやり口に運んでいた先輩は、その言葉を聞いた途端目を輝かせる。
「午前! ということは勤務表の雑巾掛けは?」
「しなくていいぞ」
「喜んで! 喜んで行かせていただきます!」
 食い気味に承諾し明らかに上機嫌になった先輩に苦笑いしながら、頭役は私に買い物のメモを手渡した。

「ほんとラッキーだったよねー。昨日のアタシの頑張りを砂の中から見てくれていた! ってことなら、ほんと砂鯨様様って感じ」
 馴染みの問屋で仕入れた駱駝のミルクと玉葱を持ち、機嫌よく歩く先輩。
 雛豆の大袋を抱えながらその隣を歩き、次の仕入れ先に向かっていると、大通りの喧騒が奥から少しづつ静まってきているのが見えた。
 何事かと少しづつこちらに近づいてくる静けさの発生源を目を凝らして見てみる。
 それは、ひとりの女性だった。ただ、“女性”の二文字だけで説明するのも畏れ多く感じてしまうような、そんな異様な雰囲気を放っていた。
 足元まで伸びる丁寧に手入れされただろう艶やかな藍の髪。遠目に見てもわかるほど透き通った白い肌を包む衣服はよく宿に訪れる踊り子の衣装とよく似ている。日の出の空のような青のサーキュラー・スカートは風に吹かれてゆったりと揺れ動き、胸下とヒップスカーフに縫い付けられたコインの音が静かな通りによく響いた。
 以前宴会の中盗み聞いた、昔々に遠い国を滅ぼした美女の話をふと思い出す。
「うお、噂をすれば」
 ちょっとこっち、と先輩に腕を引かれる。通りの端に寄った直後、先程まで私達がいたところを通り過ぎていく女性。
 すれ違った瞬間、ふわり、砂の香りがした。

 *

「夢?」
 午後の仕事前の庭掃除をしながら、私は先程先輩から聞いた話を思い返していた。

「そう、彼女は砂鯨の夢なんだよ」
 ひょい、と駱駝のミルクを持ち直しながら話す先輩。
「アタシ達が夜寝ている時に夢を見るように、神様も夢を見る。だから砂鯨様も夢を見るし、ここベハリでは夢見る砂鯨様が現れることもあるんだよ」
「え、でもさっきの方は人間でしたよね? 砂鯨様って、文字通り砂鯨なんじゃ……」
「夢だからだよ。」
 当たり前のように先輩が言った。
「夢なら何にでもなれるでしょ? なら砂鯨様だって人間になれる。ま、なぜ夢見る砂鯨様がアタシ達にも見えるのかは、まだ解明されていないらしいんだけどね」
 先輩曰く、ベハリに現れる砂鯨を見られることはそうそうないらしく、見ることができた人には幸運が訪れると言われているらしい。
「あ、でも砂鯨様に出会っても、決して話しかけちゃダメだよ」
「そうなんですね。でも、どうして」
「だって」
 現に気付いてしまったら、夢から醒めてしまうでしょう?

 確かに先輩はそう言っていた。そう言っていたのに。
「あの、すみません」
 どうして私はこの少女に話しかけられているのだろう。
 庭掃除中に話しかけてきた私の腰くらいの背丈の少女。まだ背中の中程までしか伸びてはいないがそれでも丁寧に手入れされていることがわかる藍の髪。透き通った白い肌を包む服はサーキュラー・スカートではなく動きやすそうなハーレム・パンツではあるものの、やはり宿で見る踊り子の衣装によく似ている。
 そしてなによりこの“何かが違う”と感じさせる異様な雰囲気。間違いないと言ってもいい。彼女は砂鯨の夢だ。
 砂鯨の夢には話しかけてはいけないはず。なら話しかけられてしまったらどうすればよいのだろう。こんな想像もできなかった展開、先輩に対処法を聞いているわけもない。
「あの……」
 繰り返し話しかけられ、思わず少女の方を見てしまう。
 目が合う。はっ、とした途端。
「どうしたの?」
 思わず返事をしてしまった。
 ああ、神様ごめんなさい。いや、この国の神様は目の前にいる砂鯨様なのだけれど。
 私はもしかしたら間違いを犯してしまったかもしれません。ですがどうかお許しください。
 彼女の顔が、姿が、故郷にいる妹と重なって見えてしまったのです。寂しそうな、不安そうな妹の顔を思い出すと思わず話しかけずにはいられなかったのです。
 心ではそう懺悔をしながら、頭ではこれからどうすればいいのか必死に考えていた。
 そして何度考えても、彼女の話に合わせる以外の結論には至らなかった。
 ならば腹を括るしかない。私は今から彼女の夢の一部になろう。
「まいごになっちゃったの」
 しょんぼりとした顔で言う少女。彼女にとってこれが夢だと悟られてしまわないように、慎重に言葉を選ぶ。
「そうなんだ。だれとはぐれちゃったのかな」
「おねえちゃん。おねえちゃんがいなくなっちゃったの。おねえちゃんといっしょにまちにいってたのに、しらないあいだにはぐれちゃったの」
 少女を連れて街に行くのはリスクが高い。私は自由に街に出られるわけではないし、なにより彼女は砂鯨だ。なにも考えずにどこへでも連れ歩ける存在ではない。
 ならここでしばらく相手をして、彼女が夢から覚めるのを待つしかない。夢から覚める時には美しく消えていくらしい、と先輩が言っていた。彼女が消えた後は、何事もなかったかのように掃除を再開しよう。
「わかった。今私の友達がお姉さんを探しているからね。見つかるまで
ここでしばらく待っていよう」
「ほんとう?おねえちゃん、ここにきてくれるの?」
「そうだよ。じゃあ、待ってる間なにして遊ぼっか」

 それから私と少女は、夢の中二人で遊んでいた。箒で集めた落ち葉をベッドにしたり、小さな花を集めて花冠を作ったり。
 些細なことで喜んだり悔しがったりしている少女を見ていると、くすぐったいような、少し寂しいような心地がした。
「わたし、あそびつかれてねむたくなっちゃった」
 蕩けた目を擦って少女が言った。
「いっぱい遊んだもんね。お姉ちゃんが来たら教えてあげるから、少し眠っていていいよ」
「ほんとう?ありがとう。じゃあちょっとだけ、おやすみなさい」
 私の膝を枕にして、すぐすうすうと寝息をたて始めた少女。
 夢の中で眠りについたなら、次目が覚めるのは現実だろう。楽しくて、少し奇妙だったこの時間ももうおしまいだ。そう思っていたのに。
 少女はいつまで経っても消えていかない。
 身体を動かすこともできないまま、私は慌てていた。消えていかないのであれば、少女は未だ夢を見ているのだろうか。しかし今の私にはそれを確かめる知識も術もない。
 どうしようかとあたりを見回したその時、私は自分で自分の目が見開かれたのがわかった。
「人の子よ」
 艶やかな髪、白い肌、風に乗る僅かな砂の香り。
 大通りで見たあの砂鯨の夢が、私の後ろに立っていたのだ。

「感謝するぞ、人の子よ。その娘は妾の妹でな、妾が眠っている間に続けて夢見ていたようなのだ」
「ど、うしてその事を──」
 はっとして両手で口を塞ぐ。夢を夢だと悟られてはいけないのに。
 しかし彼女は私のその姿を見て、くつくつと笑った。
「そう焦らなくても良いぞ、人の子よ。妾は醒めているのだから」
「それは、どういう」
「妾は今夢を見ている。妾はその事を知っているのだ。人の子の間では、覚醒夢と言うんだったか」
 まあこのような事、稀にしか無いのだかな。と、彼女は再びくつくつと笑った。
 覚醒夢なら知っている。私も時折見ることがある。砂鯨が夢を見ることも、夢がベハリの街に現れる事も驚きなのに、さらにその中で意識がある事もあるとは。
「そなたと妹のことは随分と前から見つけてはいたのだがな。まあこんなことも珍しく、ついじっと見てしまっていたのだ。許せ」
 事実に頭がついていかず、ただただ呆然としている私に近付くと、彼女は膝の上の少女を抱き上げた。その小さな衝撃で、少女の瞼が開く。
「おねえ、ちゃん?」
「そうだ、妹よ。姉が迎えに来たぞ」
「そっか、よかった」
 安心したのか少女は表情を緩め、再び夢の中の夢に入っていったようだった。
「さて、人の子よ。妾も妹も、そろそろ夢から覚める」
 気付くと彼女の足元が、砂粒のように細かな光に包まれていた。
 世話をかけたな、と笑む彼女に小さく口を開く。
「いえ、そんな。私も、楽しかった、です」
 そんな月並みな言葉しか言えなかったのに、彼女はその先のことも見透かしたような目をして、さらに笑みを深めた。
「妹を見つけたのがそなたのような者でよかった。礼として、そなたにささやかな贈り物を」
 砂鯨を見られることはそうそうなく、見ることができた人には幸運が訪れると言われている。
「さらに妾の名前まで知ったならば、この先の幸せは保証するぞ」
 足先から胸元までを包み込んだ光が、彼女の薔薇のような唇を引き立たせる。
「妾の名は、ヴァリーカだ。覚えておけ、人の子よ」
 光の砂粒が、二つの夢を抱えて空に巻き上がる。
 雲ひとつない青空を、漂い、花咲き、風に溶けていった。
 ぼんやりした心地からはっと我に帰る。もしかしたら夢を見ていたのは私の方かもしれない、なんて、痛む頬をつねりながら。
 宿が少しずつ騒がしくなってきた。
 さあ、もう少しだけ庭掃除の続きをしよう。
 夢の先、訪れる幸せのその前に、今夜の仕事も忙しそうだから。