noveで企画

アプリnovelnove交流による企画。

三題お題小説 瀞石桃子さん

はちみつレモン、ときどき焼肉

 

【トップノート】
窓から差し込む月の青白い光が、洗面台の鏡に映る香苗の輪郭を淡くなぞっていた。
コップ一杯の水を飲み干して、少し冷静になり、香苗は髪がぐしゃぐしゃで、メイクもそのままだったことに気づいた。
その日は仕事終わり、共演者との飲みがあったが途中から現在までの記憶がなかった。気怠さはあまりないが、度数の高いアルコールはまだ残っている気分だった。
時計を見ると、深夜2:40。明日、というかもう既に日付は変わってしまったので今日になるが、今日は午前中に美容雑誌のインタビューがあり、午後からバラエティ番組の収録が予定されていた。年末は仕事が忙しく、それなりに自分でも頑張ったつもりだった。
今年も色んな人がテレビに出ては、売れたり、干されたり、消えたりしていた。小さな弾みや些細なきっかけから芸能人としてのローソクの火が小さくなると、その証拠に年始の仕事が少なくなることが多いのが定番だった。
幸い香苗は年が明けても順調に仕事のオファーがあり、ほっと胸を撫で下ろした。この業界ではつねに頑張っていないと、いつ見向きされなくなるかわからない。目立ってナンボという傲慢な気前はないが、番組のアクセントになれるように必死にやってきたつもりだった。時には自分を押し殺して、おもねることもあったが、それも仕方ないと言い聞かせてきた。
寝室に戻り、スマホを開くとメッセージが数件入っていた。飲み会お疲れ様でした的なものばかり。みんな愛想どうしで付き合っている連中で、香苗もその一人だった。だから互いにプライベートには干渉していないつもりだけど、飲み会だとけっこうガツガツ来られるときがあった。
香苗は飲み会はあまり好きではないが、無愛想な振る舞いはこの業界においては大変な損失になりかねないから、仕方なしに付き合わないといけない。
近頃は、若いタレントやアイドルで塩対応とか冷めたキャラをしている子たちなんかもいて、そういう子たちは無愛想でもキャラとして理解されるだろうけど、香苗は普通だった。
普通に、明るく、おどけたり、普通に、ひとりの女性タレントだった。
自分の何が長所なのかすら、てんでわからないままいつも仕事をこなしていた。やたらめったら褒められるような人間でもない。必死さが伝わりすぎると痛いキャラになるから、そうならないよう気を付けている。ただそれだけ。
それでも香苗はもうすぐ33歳を迎えようとしていた。
不安じゃないはずがなかった。でも考え出したらあれこれドツボにハマってしまうから、その日その日の仕事を一生懸命やることが香苗のモットーになった。
トゥモローイズアナザーデイ。風とともに去りぬでスカーレット・オハラが最後に語る言葉を己の拠り所とした。
香苗は午後からの番組で共演する出演者および彼らの性格やプロフィールなどを念仏のように唱えながら、再び眠りについた。

子役の成長は、驚くほど早い。マジ早い。知り合いの子どもの成長も早いけれど、子役は多くの大人に混ざって生きているためか、見た目以上に落ち着いてみえ、とにかく受け答えの明瞭さが抜群に良くなる。
その実、西京彩水が香苗と久しぶりに会ったのも実に7年ぶりのことだった。
それは香苗の楽屋に彩水が挨拶に来たときのことだった。最初香苗は動揺した。実際、成長した彩水を見ることは二人が昔共演して以来だったからだ。
「彩水ちゃん? え、あやみちゃん?」
「ご無沙汰しています、香苗さん」
「すごい。ほんとに? 彩水ちゃんなの?」
「びっくりしてます?」
「や、だって。ほら、えー。全然違うもん」
香苗の言う通り、たしかに彩水は身長も大きくなったし、髪型も変わったし、表情が一気に大人に近づいていた。
「今いくつ?」
「15です」
「中学生?」
「高校一年生です」
「前ドラマに一緒に出てたときって、まだ小学生だったでしょ」
「ですね。8歳でした」
「こんな大きくなるとはさあ。ちょっとびっくらこいてるよ、私」
今の香苗ともほとんど身長差がなくなっていた。
「香苗さんはテレビで見てますけど、変わらないですよね」
「いやあ、頭は昔のまま馬鹿丸出しだけど身体は結構やばくなってきてるからね。痩せたいのに痩せれないんだから」
「香苗さんは今のままでいいですって」
「今のままはさすがにダメ」
香苗は節制・節電・節水の心得を彩水に解くなどした。30代独身の生活を、高校一年生の女の子に語るシーンはなかなかないが、いつかそうなるかもしれないと思って香苗は熱をこめて力説した。
「──彩水ちゃんって、テレビかなり久しぶりじゃないっけ。何の番組出るの?」
「『今あの子役たちはどうしているか』です」
「ああ、アレかぁ。え、ってことはほんとあのドラマ以来じゃないの」
「ですね。正確には小学3年生のときに小さな舞台でお芝居したので、それ以来です」
彩水は元々子役の出身で、5歳のころから劇団に所属していた。7年前に香苗と共演したドラマが彩水が最初に出演したテレビで、そのときの演技が人々の心を打った。それから一時期テレビに出演していたが、彩水は当時あまり人前に出ることが好きではなかったため、小学三年生のときに芸能界からいったん退いた。
「あのあと中学生とかになっても、時々私が所属していた劇団っていうか、そこの事務所にいまだにわたし当てのファンレターが届くらしくって。それを読ませてもらっていると、私の何かで誰かと誰かが大切な縁を見つけたり、勇気をもらったり、何かに憧れたりして、そういう思いを自分自身が受け取ったとき、ああ、あの時やってよかったなあって思うようになって」
その後演劇からも遠ざかり、一時は勉学に励んでいたが、高校生になって自分の進路を考えたとき、最後に行き着いたのが女優の道だったと彩水は語った。
「周りの後押しもあって、そこでちょうど今回の番組からオファーがあったので、もう一回テレビに出てみたいなあって思ったのがきっかけでした」
「彩水ちゃん偉いね。ほんとなんか、お姉さん尊敬するよ、彩水ちゃんのこと」
「いや、全然ですよわたし。何もないですもん」
「ううん、その心意気がなんかもう、好き」
「香苗さんはやっぱり前と同じですね。いつもわたしを褒めてくれる」
「えー、そうだっけ」
「はい。まあわたしだけじゃなくて、みんな褒めてましたよ。いいね、とか、好きとか」
「そんなSNS感覚で軽々しく言っていたかな」
「ほんとSNSみたいな感覚でしたね」
そんなやり取りもあって、香苗は彩水と連絡先を交換するに至った。香苗自身、あまり芸能界の人と連絡先を交換することはないが、無意識のうちに彩水のことを放っておけない人間になってしまったのか、つい心のタガが許してしまった。


【ミドルノート】
某バラエティ番組
「──そうなんですよ! 私、家に帰るとき、いつも話しかける電柱があるんです。今日は仕事がんばったよーとか、みんなで楽しく遊んだよーとか」
「お前おかしいやつちゃうんか」
「おかしくないですよ。でもこの間酔っ払って帰ってたとき、電柱に『アレクサ、家に帰る道を教えて』って話しかけてて」
「なんやそれ」
「アレクサは何にも答えてくれなくて、私イライラしちゃって」
「そりゃ電柱やもんな」
「だから電柱を思いっきり蹴ったらヒールのカカトが取れました!あと目が覚めたら足も捻挫してました!」
「アホや!」
香苗は自分の怪我した足を見せるため、あぐらを掻くように引き上げる素振りをした。場合によってはスカートからパンツが覗かれるアングルにも見えた。
「そんな汚いモン見せんでええねん」
収録前日、このエピソードをするために香苗は右足のくるぶしに赤っぽくメイクしていた。実際捻挫をしたのは2ヶ月前のことだからすでに痛みも腫れもない。けれどこのエピソードをするためには、そういう小細工だって必要だと思ったのだ。悲しい女だなと香苗は自分の足を見つめて憂う。
はしたないし、こんなことでもしなくちゃこの世界で生き残っていけないと決めつけている自分が何より不憫だったから。
案の定、収録後に香苗の肩を叩いて褒めてくれる人はいなかった。杓子定規なお疲れさまを言い合い、あとはプライドばかり飾っている芸人たちがスタッフなどを引き連れて食事に行くような話をしているだけだった。
香苗は楽屋に戻り、帰り支度を始めた。コンセントから充電器を取り外したら、もう後は帰るばかりだ。けれど廊下の方では何やら甲高い話し声が聞こえたりする。今扉を開けたりすると、また気を使わなきゃいけない気がして、香苗は逡巡する。別段、外に出て誰かと会うことが悪いことじゃないのに無意識に避けようとしている自分がいたことに彼女は気づいた。
そっか、逃げたいんだ、私。
人と話をして、自分のことを聞かれるのが嫌なんだ。
香苗は後ろめたい自分に出くわしてしまって、おろおろしてしまった。
今の自分が正しいのか、正しくないのか。合っているのか、間違っているのか。
その答えが欲しかった。全部を許してくれる何かを香苗は無言で抱きしめたかった。
不安になった香苗は、ついスマホに手が伸びてしまった。そして自分の名前を調べようとした。いわゆるエゴサというやつで、芸能界においては非常にデリケートな案件に彼女は足を踏み入れようとしていた。
普通の人なら十中八九発狂しそうな記事やコメントがうじ虫のごとく出てくる。それがエゴサだと聞いた。それらを見た瞬間、生きた心地がしなくなる。今まで見せてきたもの、これからも見せるつもりだったものに途端に自信を失ってしまうのだと。みんなが言っていた。
そして、みんな口を揃えてこう言うのだ。
『ネットは怖い』
だから見ない方がいい。
香苗はスマホの検索バーに『国見香苗』と入力した。その時点で胸がばくばく鳴り出す。エンターキーを押そうとする親指が、最後の砦だった。
「......私は」
そのとき、小気味良い電子音とともに新着メッセージが入った。
「あ、え、あ、ああ、ビックリした」
緊張がいきなり緩和に塗り潰されたことで香苗は一度スマホを机に置いて、深呼吸をした。
もしかするとこのまま危ない橋を渡るところだったかもしれない。中身をのぞいたら元に戻れなくなるかもしれないところだった。ある意味決死の覚悟だったからこそ、今の思いがけない通知が自分の気持ちを踏ん張らせてくれた。
香苗は改めてスマホを手に取り、メッセージを開いた。
差出人は、以前連絡先を交換した西京彩水だった。
おや?
『国見香苗さま
こんばんは。おつかれさまです。仕事終わりましたか? まだですか? わたしは終わりました。香苗さんにお願いしたいことがあります。もし良かったらいつかお食事しませんか。いろいろお話がしたくて。空いている日とか教えてもらえたら嬉しいです』
この文面を読んで、香苗は全身の力が抜けホッとし、じわりと温かくなるのを感じた。誰かに頼まれる、頼られることによって容易く満たされる自分の心のなんと弱いことか。
香苗は慣れていない喜びになんとなくどぎまぎしながらも、取り巻いていたはずの重苦しい曇天は瞬時に消え去った。
もちろん、その後の香苗の行動は書くより明らかだった。

「いいんだよ! ね! 今日はお姉さんの奢りだから! ね! いっぱい食べて!」
「なんか高そうな店なんですけど、良かったんですか? 全然いつでも良かったんですけど」
「いいのいいの。私が食べたい気分だったから」
香苗は自分でもベタだなぁと思いつつも、がやがやと賑わう店の雰囲気や香ばしい煙のにおい、早く食べてくれと言わんばかりに主張するお肉ざんまいのメニューを目の前にして、やはり焼肉に間違いはないと絶対的な確信をするのだった。
そもそも人類はもっと焼肉をするべきなのだ。
お手軽に幸福を得ようとするなら、人間何も考えずに焼肉をすればいいんだよ。気になる人とどんな食事をすればいいか悩んだときはまず焼肉をすればいいし、パートナーと喧嘩したなら一緒に焼肉に誘えばいいし、焼肉を食べたら新しい肉を焼けばいいんだよ。と香苗は思う。
「カルビを頼むも良し、牛タンを浴びるほど頼むも良し、ロースを片っ端から頼むも良し。ネギ塩もレモンもサンチュも何でもある。お姉さんが焼いてあげるから、彩水ちゃんは好きなだけ選んでね!」
「香苗さんなんだか楽しそうですね」
若干戸惑うようすの彩水に対し、香苗は目尻の位置をテープで固定したかのようにずっと微笑んでいた。そしてトングをカチカチ鳴らしていた。
「こうさぁ、私もほんとは一人焼肉とか憧れるんだけど、"抜かれる"のがヤなの」
芸能人たるもの、いつ何時週刊誌に監視されているかわからない。だからこそ公で行動するときにはそれなりの大義名分が必要なのだった。
たとえそれがでっち上げだとしても、素直に認めたらその時点でアウトになるわけだし、香苗もかつて若い頃はお決まりの「仲の良い友人です」と答えることも多々あったことを懐かしむ。今はもう、そんなことはないのだけど。
「でも彩水ちゃんも大変だよね。明日は学校はないの?」
「わたし、日中は芸能とかの仕事に専念しようと思ってて。学校は一応通ってますけど、夜の授業を受ける定時制なんです」
「ああ、そうなんだ。定時制ってどんな生徒がいるの?」
「ううん、まあいろいろです。取ってる授業もバラバラだし、年齢とか目的とかもみんなさまざまです」
ふうん、そんなものなのかな、と香苗は肉を頬張りながら彩水の話に耳を傾けていた。それにしても、彩水が自分と話したかったことって何だったんだろう、と疑問が浮かぶ。彼女は何か聞きたくて自分を誘ったはずなのだから。
彩水は積極的に肉を食べるよりも、香苗が焼いて皿に乗せた肉をお行儀良く食べた。出しゃばるでも遠慮するでもなく、もちろん香苗にも食べるように気を遣いながら。
大人たちの中で生きてきた子ども。
彩水を見ているとそんな言葉がよぎって、香苗は自然と自分の半生とを比較してしまって、ふと冷静になってしまう。途端に風塵を前にした砂漠のように微笑みがさあっと消えてしまいそうになる。
「香苗さん、大丈夫ですか?」
彩水の一言で我に返る。
「いや、うん、別に全然!」
「なら良かったです。──それでですね、オーディションに行ったりすると西京さんは歌も上手いからそういう方面を目指してもいいと思います、って言われるんですよ。そうは言われてもわたしがしたいのはお芝居だし、結局そのオーディションも落ちてましたし。で、なんていうか、よくわかんないっていうか」
香苗は自分の悩みを真剣に話そうとする彩水の表情なんかをずっと見つめてしまった。
彼女は真面目な話のときは目を見ようとせず下を向くこと。そのときに唇が少し突き出て、時々上目遣いで香苗を見てくること。頬杖をついて店員の動きを目で追う仕草。目がオパールみたいな潤んだ輝きをたたえていて、思春期特有の肌のぷつぷつを自分なりに覚えたメイクで健気に隠そうとしているところ。彩水は丸顔なのでおでこを見せるように前髪を分けたほうが絶対に似合うと香苗は思っているんだけど、本人は厚めの前髪のため、なんだか見た目の童顔さと髪の重さが不釣り合いな気がすること。きっと彼女なりに具体的に目指している誰かがいるんだろうなってこと。
今、彩水が目標としている場所は、もはや香苗の介入しようのないほど崇高なものなのだろうと思った。彩水は自分のことを誰かに相談したかっただけで、香苗を唯一無二の相談相手にしようとしたのではないんじゃないか。
正直なところ、香苗自身が彩水の芝居のことや生活についてアドバイスできることは何もなくて、ただただハラミとかロースを網の上で焼きながら傍聴することしかできなかった。
そんなふうに二人の時間は過ぎて行き、食べ放題の時間も終わりを迎えた。彩水は重ね重ね香苗に礼を言い、香苗自身はなんとなく消化不良のまま別れを告げようとしていた。
「とにかく明日からまた頑張ってみます!」と彩水は大きな声量で宣言した。「香苗さんと話して分かりましたけど、わたしお芝居以外にもやりたいことがいっぱいあるんだなって気づいたんで、それらも自分のチャンスだと思って前向きに取り組んでみます!」
「そうだね。とてもいいと思う。若いときのエネルギーって何にも無駄じゃないからいっぱい挑戦してほしいな。お姉さんも応援してるから」
「はい、香苗さん。ありがとうございます」
店を出たのち、遅くならないようにと香苗は彩水に1万円を持たせてタクシーに乗せた。そのまま別れ、香苗はコンビニで酎ハイを買って帰路に着いた。
その日はなんとなく、いつも話しかけている電柱がある道を避けて、遠回りして帰った。以来、電柱に話しかけることは一切無くなってしまった。自分でも何故かはわからなかった。

一年半後、西京彩水を世間で知らない人はほとんどいなくなった。現役女子高生でありながら、立て続けにドラマの主演に抜擢されたり、歌手デビューしたり、さまざまなメディアに引っ張りだこになった。史上最年少で大型の歌謡祭でメインパーソナリティを務めるなど業界における信頼も増し、彼女が独自に開設した動画チャンネルやSNSも視聴者のウケが良かった。
そんなふうに彩水は名実ともに大ブレイクに至り、世間の顔になった。一挙手一投足に人々の注目が集まり、彼女のコメントは叡智のように扱われた。
彩水のマネージャーからはひっきりなしにオファーの連絡があり、彩水は極力断らないようにしていたものの、最近は全部こなしきれなくなってきているのが現状だった。しかも仕事の都合上、お金についてもシビアに考えることも迫られるようになったことで、正直なところ心身ともに疲れることが増えたというのが彩水の本音だった。
売れっ子なのだから忙しいうちが華とは言い聞かせつつも、客観的に見つめる余裕なんてどこにもなかった。誰かしら自分の身代わりになって、お仕事をしてくれたらいいのに。そう思うことも増えた。
色々な感情がないまぜになって、何が正しいのかわからなくなりつつあった彩水の近頃の楽しみは、何を隠そうエゴサーチだった。有名どころのSNSなんかで自分の名前を検索することが極端に増えた。夜寝る前は必ず見てしまうし、つい夜更かししてしまうこともあった。
自分のファンだと名乗る人が熱心に自分の写真などをアップしているのを見ると、口元が緩んでたまらなく興奮するのだった。
嬉しさの他に、その人の感情を独り占めしていることがたまらなかった。自分を見て、感じて、みんな何を想像しているのか。馬鹿馬鹿しくも、それを見ることが愉悦になってしまっていた。自分の写真に対して◯◯した画像を上げている人がいることも知ったし、自分のアカウントに下賤なメッセージや写真を送りつけてくるる人たちがいることも理解した。
SNSを介して彩水自身閉口してしまうことはあったけど、それ以上に自分を崇拝したり、応援してくれる人たちの言葉を直接目にしたりすると、胸が温かくなるし、ときどきお腹のあたりが切なくなったりした。
やめられるはずがなかった。
その行為が正しくないことであっても、自分にとっては良いことだと言い訳をしてしまうと、人間どうにもならない。
エゴサ中毒」
と彩水は部屋で呟いた。単純にいい響きじゃないかと思った。SNSに書き込んでやろうか。でも、そんなことしたらまたみんな反応しちゃうもんな。でも、みんなだってしてる。下品だから。わたしだけじゃない。芸能人はみんなしてる。王様になった気分でさ、みんな大したことないこと言ってる。下品だから。
だけどわたしは、下品な人間にはなりたくない。
自分が面白くないと思うような人間には、絶対になりたくない。彩水はそう強く決意した。
その深夜、彩水はひとつの夢を見た。
お酒に酔って、だらしなくなった香苗が出る夢だった。純白のカーテンが日差しと混ざり合うようになびいて、その隙間に香苗は座っていた。彼女の着ている薄手のシャツは、しおれた白菜みたいだった。上のボタンから覗く水色のブラジャーが彩水の気持ちを妙に惹きつけた。白蛇のように長く伸びる香苗のか細い腕が彩水の首に回されると、彩水はきゅっと強張った。香苗は彩水の耳に何か囁いた気がするが、内容はわからなかった。そもそもどうして一年半近く連絡を取っていなかった香苗が夢に出てきたのかも定かではなかった。しかしながら、夢の中の香苗はとても優しい顔をしていて、彩水の善も悪も等しく包み込むような温かさを与えてくれた。
この夢を見て以来、彩水は改めて香苗を意識するようになった。
夢から覚める間際、香苗が彩水の手を取ってどこかへ連れて行ってくれようとしていたが、あれはどこに行くつもりだったのだろう。どこかに連れ出してくれるつもりだったのだろうか。
彩水はそのことが気になって気になって、仕方なくなって、居ても経ってもいられず、ほどなくしたころ再び香苗に連絡を取ることにした。


【ラストノート】
明くる日の仕事終わり、中野区のとあるマンションに彩水は来ていた。そしてとても緊張していた。
目の前にある扉の向こうには彼女が会いたかった人がいる。ずっと会いたくて待ち焦がれた人だ。
しかしその人は、半年前大きなスキャンダルがあったせいで、その後一切テレビで見ることがなくなってしまった人だった。
スキャンダル後の会見をたった一人で行い、涙を堪えながら気丈に振る舞っていたのを彩水は鮮烈に覚えている。
身近に感じていたからこそ、他人事として見ることができなかったし、その後いろんな人が彼女の噂をしているのを聞くことが辛かった。同意を求められたとき、上手く返答できていた自信はない。それぐらいに彼女は彩水にとって大きな存在だった。
自分でアポを取ったとき、電話の向こうから聞こえる声はのんびりしていた。どことなく、世の中に諦めを悟ったような寂しい声音だった。だからかもしれない。彩水はすんなり彼女の家に招かれたのだ。
今夜は白い雪がしんしんと降っている。
今、彩水は扉の前に立っている。気持ちばかりの菓子折も持ってきたが、持つ手袋が震えている。いろんな挨拶も考えてきたが、どれもごちゃごちゃではっきり言える自信はなかった。
意を決してインターフォンを押すと、家主はすぐに応答した。
『開けてるから勝手に入ってきて』
「...お邪魔します」
彩水が部屋に入った瞬間感じたのは、アルコールのにおいだった。それからゴミの異臭。玄関にはゴミ袋がいくつも積み上げられ、リビングにたどり着くまでの廊下も狭く感じるほど、ありとあらゆるところにゴミやら物が落ちていた。それらを見た瞬間、なんとなく家主がどういう状況にいるのか察しがついた。
彩水はしばし竦然と立ち尽くした。くちびるを真横に結んで、リビングのノブに手をかけた。
ところが彩水の観測とは裏腹にリビングに入ってみると、そこは整然と綺麗で、変なにおいもしなかった。窓側のデスクには彩水が会いたかったその人が座っており、眼鏡の奥の眼差しが彩水をしっかりと捉えていた。
ああ、良かった。ちゃんと、いる。
「香苗さん、お久しぶりです」
真っ先に口を開いたのは彩水の方だった。それから続けざまに名前を呼ばれた彼女が立ち上がって、彩水に近づいてくる。
「久しぶり。お仕事お疲れさまでした。温かい飲み物作るけど、いる?」
「あ、すみません。じゃあお願いします」
「蜂蜜入りのホットミルクとかどう?」
「あ、すごく美味しそう。ぜひお願いします」
その辺のソファに座って待ってて、と誘導され、彩水はそわそわしながら腰を下ろした。
それから少しして、香苗がホットミルクをソファの前のテーブルに置いた。そして彩水の隣に香苗も座った。肩が触れ合うくらいの距離感だった。
実際、二人の肩は触れた。衣どうしが擦れるというよりは、直接肌の温度が伝わるほどにボーダーのTシャツを着た香苗は彩水に密着してきた。別にそれで動揺するわけじゃない。だけど、香苗の抱えている絶え間ない寂しさや物悲しさがひどく押し付けられたような気がして、彩水は複雑な気持ちになった。
心が水風船みたいに揺れ動くまま、隣にいる香苗はこう切り出した。
「彩水ちゃん、お話しよ。悩みがあればまた前みたいに聞くし、ないのなら、私も適当な話をしたいんだよ」
彩水はちょっと落ち着いて、こう返した。
「聞きますよ、何でも。香苗さんのこと、何でも聞きます」
「ありがとう。そう、あのね、私ずっと彩水ちゃんのことをテレビで眺めてたの、謹慎中。映画、とてもよかった。歌もとてもよかった。人とのコミュニケーションも、トークも全部、よかった」
「いきなりそんなに褒められると照れますね」
「同時に、やきもちも焼いていたの」
「え」
「こんなに若いのに、みんなが欲しがっているものを全部独り占めにできている」
「独り占めなんて、そんな」
「貴女を見ていると、自分には何があるんだろうってずっと自問自答しちゃうんだよ。この世界に入って、楽しいことも辛いこともいっぱいあったけど、じゃあそれが自分がしたかったことだったかって言うと、そうではなかったんだよ。だから何をモチベーションに人前に出ればいいのかわからなくて、結局何者にもなれないままだった」
「香苗さんはそんなことないですよ。少なくとも、わたしの生きてきた中でちゃんと信頼できる相手はこの業界では香苗さんくらいです。香苗さんはすごく懐が広くて、右も左もわからないわたしも大事にしてくれたじゃないですか」

「それは単純に貴女が可愛かっただけ!」

机でも叩いたかのように、香苗の言葉が強くなる。さも、その言葉をずっと言いたかったみたいに、ストレートな思いが彩水にぶつけられる。おもむろに香苗は彩水の手を取って、目を見つめる。
二人の顔が至近距離にある。そのとき彩水は、香苗が酒をしたたか飲んでいることに気づいた。口のあたりから臭気がして、瞳もとろんとしている。
「彩水ちゃん、貴女がとても可愛いの」
「香苗さん...?」
「女の子はみんな可愛いけど、貴女は別格なんだよ。オパールみたいな大きな目と、たぷたぷの桃色のくちびる」
「香苗さん、大丈夫ですか」
たぶん、もうこの人は正気じゃない気がした。その確信に至るのに、多くの思慮は必要なかった。彩水は香苗に握られた手のしっとりとした感触から、この後どんな成り行きになるのかもなんとなく解っていた。
わたし、この人に愛される。
この人からべたべたに愛されて、むやみに気持ちよくなる。香苗さんはそのやり方を知っている。彼女のスキャンダルがそういう類いだったのだから。
既婚者、浮気相手、芸能界追放。
そんな言葉が彩水の心によぎる。香苗の立場を思えば、今彩水たちがこんなことをするべきではないことは重々理解していた。だって、結局それは懲りていないのと同じだから。相手が違うだけで、領域が異なるだけで、しようとしていることは同じなのだ。

ざまあない。
したらダメに決まってるじゃん。

「ねえ彩水ちゃん。貴女がここに来た理由をちゃんと教えて。私に会いたかったのは、どうして」
香苗が問いかける。言えない答えを自分で出しなさいと言わんばかりに彼女は彩水の目を制圧してくる。
「......少し前、香苗さんの夢を見たんです。光の差し込むシーツの上に座る香苗さんがいて、白いカーテンはまるで天使の羽みたいでした。夢の中の香苗さんはわたしの手を取ってどこかに連れて行ってくれようとしました。結局その先はわからなかったんです」
「私の夢を見たから、会いに来たの?」
彩水は小さくうなずいた。
「夢の中の私は天使みたいだった?」
「はい」
「じゃあ、現実の私は?」
「ええと、酔っぱらい」
「ヨッパライ。正解」
香苗はふふふと笑った。前見たときもそんな顔だった気がする。
「ヨッパライは、ほんと良くないよねえ。自分でも何が何だかわかんなくなるんだ」
そう言うと香苗はおもむろに身体を伸ばし、ソファの後ろにある棚の上にあった一つの小瓶を手にした。その際、香苗の伸びた腕が彩水の顔の横を通り過ぎてどきりとした。
香苗の手にしたそれを見て、彩水はたずねる。
「香水?」
「そう。人生を楽しくするアイテムだよ」と香苗は言う。
「クロエの香水。私のお気に入りのレモンの匂いで、ちょっと甘さが混じった感じなの」
香苗はキャップを外し、みずからの手元や胸元につけた。酔っているせいか、尋常じゃない量であることが彩水の目にもわかった。ふんわり漂うというレベルではない、強烈な香りが彩水と香苗の空間を包み込む。
香苗は香水をつけた手のひらで彩水のほっぺを撫でる。指先がこめかみのあたりにあって、手の腹が頬に触れている。目を閉じると、香苗の指が目尻の下をなぞってくる。
しきりに鼻をかすめるレモンの匂いが、彼女の手によって自分の奥に刻印のように刻まれようとしている。それは例えるなら、首筋につけられたキスマーク。
香苗の胸が大きな包容力をもって、彩水に覆い被さってくる。横に仰向けになった彩水の真上に暗い影が落ちる。
彩水は香苗を受け入れる覚悟をした。
それが正しいことなのか、道理に悖ることなのかわからない。でも、別に悪いことだとは思わなかった。生きていれば案外そういうこともあるし、それがたまたま今回だったというだけで。
わたしはいつかこの匂いに触れるたびに、今日という日を、何度も何度も、すり切れるほど思い返すのだろう。
目の前にいて、手を伸ばせば全部抱きしめられる距離に居るあなたの唇が開く。

「ダメな大人でごめんねぇ──お願いアレクサ、電気を消して」


〈了〉