noveで企画

アプリnovelnove交流による企画。

三題お題小説 nanomeさん

二人ぼっちの神様は

 姉さんが肉を食べたくないと言ったのはその日の夜だった。
「ダイエットか」と父が揶揄(わら)った。
「そうじゃないんだけど」と姉さんは少し困ったように言葉を濁した。
「何だか、かわいそうになってしまって」
 父は買い物から帰ってきたばかりの母と顔を見合わせ、一瞬怪訝な顔をしたが
「ああ、ヴィーガンとかいう」
 と思い出したように言ってテレビを点けた。我が家はそうしたことには良くも悪くも疎く、自分を変えようという意識はないが変わっていく家族を引き止めようともしない。場合によっては気付かないこともある。結局その日は姉さんのみが野菜のオリーブオイル炒めで、僕たちは当たり前のように豚の生姜焼きを食べた。
 姉さんが肉を食べなくなって半年が経った。僕を含め他の家族は何も志向を変えた気はしないが、献立の都合上肉料理の割合は心なしか減っている。姉さんはいつの間にか自分の食事を自分で作るようになっていた。今の生活と体質は合っていたようで、特に体調を崩すこともなく日々を過ごせているようだ。
「はい、いつもの」
 母がテーブルに置いたのは水一杯とレモン汁が入った容器だった。姉さんは最近、食事の他にこの水とレモン汁を混ぜた飲み物を嗜むようになった。美味しくて飲むようになったのか何らかの効果を求めているのかはわからない。コップの中にレモン汁を数滴入れて無表情で飲み干す。まるで儀式のように一連の動作を終えると、姉さんは「ありがとう」とだけ言って二階の自室へと戻っていった。
「何か言った?」
 母さんが台所から顔を出したので「いや」とだけ代わりに答えた。
 もうすぐ秋が来る。

 駅を出ると雨が降っていた。傘も持っていなかったので近くの売店を探して辺りを見回すと思わず「あ」という声が出た。
 最初は電柱だと思っていた。通りの向こうで傘をさした姉さんが立っていた。確かに姉さんの体は半年前よりは随分細くなってしまっていたが、電柱と見間違うほどではない。ただその存在感が、道端の電柱と同じくらいに薄まっていた。
「よかった。間に合って」
 姉さんは最初からこちらに気付いていたようだった。駅前で合流するとそのまま傘を渡してくれた。少し濡れた僕の顔を拭こうとタオルを取り出す。その腕の細さを改めて見て思わず僕は姉さんの腕を掴んでしまっていた。
「本当に……まだ続けるの?」
 姉さんは最初何のことを言っているかわからないような顔をしていたが、やがて優しく笑って「そうだね」と答えた。雨が強くなり、傘の外の景色を消してくれた。世界に二人だけ取り残されたような感覚に、僕はしがみつこうとしていた。
「修ちゃん、行こうか」
「……うん」
「私、もうそろそろなれるかな」
「まだ戻れるよ」
「……そっか。まだ、なんだね」
「やっぱり無理なんだよ。最初から」
 姉さんが立ち止まった。言い過ぎたかと焦って顔を見る。
「大丈夫だよ。私、頑張るから」
 先程と同じ顔で笑っていた。
 もう止められないことは知っている。家に着く頃には雲間から月が覗いていた。
 姉さんの食事はその日からあまり火を通さないものに変わっていったが、父も母もそのことには気付いてないようだった。

 夕方ごろにインターホンが鳴る。母が急いでドアを開けると、厚着をした知らない男女が入ってくる。この風景もそろそろ見慣れてきた。二階に上がっていく三人を見送って、僕はソファに座りイヤホンをはめた。
 正月も終わる頃に姉さんは数本の動画をネット上に投稿していた。なんてことはない、自身の食生活を淡々と話すだけのものだ。いつの間にか野菜に対しても「かわいそうだから」という理由で本当に最低限のものしか食べなくなっていた。ただ、レモン汁と水を飲むことだけはまだ続けている。動画自体は決して高評価ではなかったが、姉さんの思想に共感した人も数パーセントの割合でいた。
 そうした人たちが姉さんと交流を続け、いつしか家に招くことも日常的になっていった。父と母は最初は戸惑っていたものの、彼らが姉さんを信奉していることを知ると無下にすることもできなくなり、進んで取り次ぎなどをするようになった。
 正直なところ、姉さんの体はあまり良くない。今の生活では体質が合う合わないではなく、純粋に栄養が不足しているのだ。姉さんも極力家から出ないようにし、買い物などは主に僕が任されていた。やつれた顔は化粧で誤魔化し、内臓機能の低下による体臭も香水で上塗りしている。そうしてまで辛うじて自我を保っている人間と何を語ろうというのだろう。
 やがて男女はお礼を言いながら階段を降りてきた。女性の方はどうやら泣いているようだった。僕はイヤホンを外して軽く会釈をする。向こうにはこちらの姿が見えていないのか、それとも姉さんとの邂逅がよほど感動的だったのか彼らは僕を一瞥してそのまま家を出ていった。
 再びソファに腰掛けテレビを点けると、鉄骨を積んだトラックが電柱に激突したというニュースが流れていた。電柱は二つに折れて大きな空洞が口を開けており、その周りを血管のように通っている十数本の鉄筋がめちゃくちゃにひしゃげていた。今の姉さんの体が思い浮かび、乱暴に電源を切った。

 冬の寒さが薄れてきた頃、姉さんはいよいよ何も食べなくなった。両親の状態は最早洗脳に近いと言ってもいいのだろう。姉さんの行動を止めるどころかますます信奉者を呼び込むようになり、居間にはよくわからない神棚のような大型オブジェを配置している。
「こうした機会って、もうあんまりないだろうから、先に言っておくね」
 信奉者たちが帰宅した後、姉さんは自室に僕を呼び出した。
「全部終わっても、お母さんたちには今まで通り接してあげてね。あと、できれば香水は今使ってるやつをそのまま続けてほしいな。それと、動画とか見て来てくれてる人たちにも愛想よくしてあげてね」
 全てを約束できる気にはなれなかった。僕の瞳が暗いのを察してか姉さんは微笑んだ。
「最後に、修ちゃんには、お姉ちゃんがずっと付いてるからね」
 力のない、だけど精一杯の笑顔だった。ゆっくりと僕は姉さんを抱きしめる。少しでも力を強めると崩れてしまいそうな、儚い身体だった。
 二日後の夜、妙な胸騒ぎがして姉さんの部屋を訪れた。カーテンからは月明かりが漏れ、姉さんの顔を静かに照らしている。いつもよりも白い頬に嫌な予感がして布団をめくり、そっと胸に耳を当てた。
 その身体からはもう何も鼓動が聞こえなかった。胃も腸も肺も心臓も全てが止まっていた。
涙が眼から溢れる前に僕は身を起こし、一年前から二人で決めていたことを実行に移した。

 車をガレージに戻していると、信奉者の人たちがインターホンを鳴らしているのが見えた。
 母さんが慌ててドアを開けて彼らを家の中に迎え入れる。やがて二階から歓喜とも取れるような悲鳴が聞こえてきた。
 リビングに戻ると両親と信奉者たちは神棚を囲むように土下座をしていた。大半がよく聞き取れない祝詞のようなものを発しながら必死に手を床に擦り付けている。「成された」という言葉がチラホラと信奉者たちの中から聞こえてきた。どうやら彼らは姉さんとろくでもない話しかしてないらしい。
「馬鹿馬鹿しい」
 聞こえるように呟いたが、顔を上げるものはいない。『予定通り』本当の姉さんを知るのは僕だけになってしまった。皆、レモンと香水で出来上がった電柱のような虚像しか目に入っていないのだ。
「馬鹿馬鹿しいって言ってるだろ!」
 ようやく信奉者たちがこちらを向いた。皆が一様に疑問の目で僕を見ていた。
「姉さんはなぁ、死んだんだよ! もうこの家にもどこにもいないんだよ! 死体は昨日俺が埋めた! 山ん中に埋めたんだ! お前らが何を祈ってんのか知らねぇけどさ! こっちは夜通しで土掘って埋めてんだよ! お前らがどう言おうがどうしようがもう姉さんには誰も……誰にも会えないんだよ……」
 信奉者たちは顔色一つ変えなかった。そして、最初に目を背けたのは父だった。何事もなかったかのようにあの神棚を拝み始めた。やがてそれに倣って、信奉者たちは時間が巻き戻ったように全員が拝んでいた。結婚式の最中に飼い犬が吠え出したが、理由が分からないから放っておく。まるでそんな態度だった。
 自室に戻ってイヤホンをはめる。結局は全部姉さんが思い描いた通りになった。下の階の物音はもう聞こえない。だがかえってその静寂(しじま)が「虚像を見ていたのは果たして"どっち"だ?」と僕に問いかけているようだった。

「私ね、神様になろうと思うの」
 姉さんはあの日の朝、確かにそう言った。
「どうしたんだよ急に」
 姉さんが疲れていることは知っていた。勤めていた会社で妻子ある男性と関係を持ち、一方的に切り捨てられたことを二週間ほど前に打ち明けられていた。破局のきっかけとなった自分とその男の間にできた子どもを誰にも言わずに堕したことも、僕にだけ仄かしていた。
「神様になれば皆から優しくしてもらえるから。神様になれば多くの人に愛してもらえるから」
「そりゃそうだけどさ、一体どうやってなるっていうんだよ。芸能界でも入る?」
「それは違うかな。見た目や、その時の性格じゃなくて……私の生き方を愛してほしいんだよね。私がいなくなった後もずっとずっと」
 姉さんの目から光は消えていなかった。自棄になったというわけではないらしい。
「ボランティアとかするってこと? 慈善活動家とか?」
「ううん、もっと早い方法を考えたの」
 そうして堰を切ったようにあの計画を話し始めた。まるで子どもの頃、二人きりで隣町に旅することを決めた時のように。ただあの頃からはもう時間が経ち過ぎていた。
 僕は姉さんに家族とは別種の愛情を抱いていたし、姉さんはそれを全て見透かした上で僕を自分の企みに招き入れようとしているのだ。
「そうすれば、ずっと一緒にいられるから」
 この囁きに抗う術を僕は持ち合わせていない。

 車のキーを回す。
 姉さんを埋めて二ヶ月、僕はあの家で完全に透明人間となった。多くの信奉者たちが時間帯関係なく出入りするようになり、僕の所在など誰も気にしなくなった。香水をいつも通り姉さんのベッドに撒き、レモン汁と水を混ぜたグラスを週に一度取り替える。その作業も今日が最後だが、今更僕がやらなくなったところで特に誰も困らないだろう。どうやら姉さんが「いない」ことが彼らにとっては唯一にして最も重要な条件らしい。今思うと姉さんは自身の実在を消すことで人から神に「成られた」と彼らに説いていたのだろう。
 どこに行こうかとスマホを弄る。出来るだけ人気(ひとけ)がないところに行きたかったが、かといって姉さんのところに行く気にもなれなかった。とりあえず街を出て、それから考えようとアクセルに乗せた足に力を入れる。大通りに出たところでパトカーとすれ違った。どうやら家の方に向かっているようだった。バックミラーからその車体が消えるまで、僕はずっと見送っていた。

(了)