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三題お題小説 みかよさん

ひゅい、と細い鳴き声を落として、真白い鳥が一羽、淡灰色の空を滑る。幾重にも重なる砂の丘、波頭の砕ける浜、そして鈍色の海へ。広げた翼が、よく海風を抱くのだろう。鳥は、何のしがらみもないように、雲間から差す薄日のなかを遥か高みへと、その姿を溶かした。
「陛下」
鳥の行く先に目を細めていたアレイアは、背後の声に振り返らぬまま、頷きだけを返した。
「皆、出立の支度を終えました。まもなく、先触れが発ちます」
「そう、ご苦労さま。あなたも、もう行きなさい」
「陛下の輿もご用意があります。ただ一言、ご命令くだされば──」
何かを抑えるような声音に、アレイアは自らの臣を振り返った。数歩離れたところで跪き、こちらを見上げる近衛の長は、厳めしい顔をなお歪めていた。目には、常にはない逼迫した光が揺らいでいる。アレイアは軽く笑んで、片手の動きのみでその続きを遮った。
「王宮には、あなたたちだけで戻りなさい。私は、ここに」
「陛下、ですが」
主の意に反することとは知りながら、それでも言いつのる姿に、アレイアは眉尻を下げる。アレイアも、理解していた。近衛は、常時王の側近くに侍り、警護を旨とする身である。主君を一人置いてゆくことに、どれほどの葛藤があることか。事実、それは平時ではあり得るはずのないことだ。側仕えの一人もなく、一国の王が時を過ごすなどということは。だが、今日この日は、そうあらねばならなかった。
「せめて、私の部下を幾人か、いえ、いっそ女官方でも結構です。誰か一人でも、お側に残してはいただけませんか。ご不自由もありましょうし、何より御身に万が一のことがあっては──」
「オンハ」
は、と息をのんだ近衛の長──オンハは、アレイア様、と呟いて口をつぐんだ。乳兄弟でもある彼は、そんな声音で名を呼ばれることの意味を知っている。
「・・・・・・詮ないことを申しました。お許しください」
「いいのよ、オンハ。ありがとう」
忠実な友は、頭を垂れることでその激情を押し隠したようだった。海が許すはずがございませんね、と囁かれた声に、先ほどまでの力はなかった。アレイアは、この男の気づかいが嬉しく、また申し訳のない思いがして、僅かに目を伏せる。
「三月前に、南で海嘯があったとか。そう幾度もありはしないと、分かってはおりますが……」
オンハの目は、アレイアの身を案じる色をのみ映していた。砂漠の民にとって、海は魔境がごとく縁遠い。海嘯に呑まれた街の噂が、彼に不吉な予感を抱かせてやまぬらしかった。アレイアのいない一月を、彼は身をすり減らす思いで待つだろう。俯いたその姿に、重ねて言葉をかけようとして、アレイアは背後から襲った風の強さにたたらを踏んだ。砂よけの外套が、驚くほどの音を立ててはためく。振り向いた先で、海が荒れ始めていた。
「オンハ、すぐに皆を連れて出なさい。刻限だわ」
「──御意のままに」
立ち上がったオンハは、深く礼を取ると、海を見やる。その目に幾ばくかの感情がよぎり、消えた。
「陛下、どうかお気をつけて」
一月後にお迎えにあがります、と告げて、オンハは海とは逆の方へ砂丘を下っていった。砂丘の頂に一人残ったアレイアは、背にしていた海に目を向ける。この国の民は、古来より、一つの法に縛られていた。二の月は海を見てはならぬ、というそれは、たった一人でも破れば、国を滅ぼす災禍となった。二の月には、砂の浜に神が依る。祭祀の長たる王以外に、其に見えることは禁忌とされた。それ故に、海岸より数里の土地の全ては、王の直轄領だった。氷風の吹き寄せる二の月のはじめ、王たるアレイアが海の離宮に到着したこの日より一月、一帯は禁足の地となる。
見下ろす浜にはひとつの影もなく、振り向いた先にも砂の丘が連なるばかり。せめて空に鳥を探すが、それもまた見つけられなかった。
荒れた土地だ、と思う。遥か遠い国では、海からの恵みがあるという。海は果てなく穏やかで、数多の魚や珍しい宝珠を授けるのだ、と。だが、この海は違う。度々の海嘯が陸をさらい、塩を降らせて植物の育たぬ土地にした。僅かな草すら育てる力を失った大地を、強烈な海風が吹き飛ばし、荒涼とした砂漠が生まれたのだ。そして、それは年を追うごとに広がってゆく。ここでは、海がもたらすのは恵みではなく、人の手に余る荒廃だ。
慣れない潮風にさらされた肌が、僅かに痛い。いよいよ強くなった風が波を呼び、鈍色の海には白い波頭がいくつも砕ける。アレイアの立つ砂丘の裾は海に没し、寄せる波は這い上らんとするように、こちらに迫るかに見えた。吠えるような海鳴りが、ろうろうとアレイアの全身を叩く。派手なものだ。唸る風も、吠える波も、先触れだ。あれが、今行くと告げている。
「そんなに呼ばなくっても、ちゃんと行くわ」
ぐっと腕を伸ばせば、装飾品のないそこが妙に軽い。身を飾ることを嫌う訳ではなかったが、常は腕に首に絡むそれは、なければないで心地の良いものだ。その重み以外のものからも、解き放たれたような気分になる。幼い子のように手足を戯れに振ってみて、最後に砂よけの沓の重さが気にかかった。それを脱いで、砂に足をつけると、伝わる冷たさが心地よい。
海に向かって斜面を降りはじめると、足元で崩れる砂に、歩む勢いが増す。転ばぬように、一足ごとに歩幅は広がり、そうしてついに駆けるような速度になる。この感覚は好きだった。身体が地を離れ、飛ぶための助走をしているような気分になる。何ものにも囚われず、鳥のように。
海は瞬くうちに間近に迫り、もう風に乗った飛沫が頬に触れるほどだ。波はいよいよ猛り、波濤がアレイアの前にそびえ立つ。黒々として見えるそこへ、アレイアはためらいなく飛び込んだ。瞬間、叩きつける水の勢いに、意識が飛ぶ。上下左右の感覚もなく、ただ、水の冷たいのが嫌だな、と思ったのが最後だった。

◇◇◇

呼ばれている。
それが、アレイアが最初に思ったことだった。先王たる父に連れられて、初めて海というものを訪れたときのことだ。アレイアの暮らす王の館は、砂漠の直中にある。
昼と言わず夜と言わず、砂を巻き上げる大風が、館のあらゆるものを叩く音を聞いて育ってきた。砂は時に人家を埋め、隊商を呑み込む災厄であると同時に、国の誰もの最も身近な隣人でもあった。幼い日のアレイアは、魔鳥が甲高く叫ぶような砂嵐をさえ子守歌にできたが、寄せて返す低い波音を恐れた。まるで何かが呼ぶようだ、と。
共に来ていた兄弟の誰もが、そんなことは言わなかった。
おまえも海が呼ぶのだね、と父は言って、困惑して涙ぐむ幼い娘の頭を撫でた。アレイアは、そのときの父の顔を思い出すことはできないが、その声音に含まれた感情の揺らぎの大きさを覚えていた。激情、と呼べるものを父が示したのは、あれ一度きりだった。
海を訪れた日から一月しないうちに、アレイアは王位継承の序列一位となった。十二いる兄弟の末子に過ぎなかったアレイアの運命を、波の音が変えた。この砂に抱かれた国では、海に呼ばれた者が王になるのだ。
ざん、と耳元で波音が三回鳴ったのを数えて、アレイアは目を開けた。波濤に呑まれる時、感じていた冷たさはなかった。波打ち際に、仰向けに横たわっているらしいアレイアの肢体を、穏やかな波が洗っていく。波は、真冬であるにも関わらず、なぜかぬるい。それが不思議で起き上がろうとしたとき、己の頭が何かに載せられていることに気づいた。同時に、薄青の空を写すばかりだった視界に、ひょいと顔が現れて、アレイアは小さく息を呑む。
のぞき込んだ顔は、人間の男のそれであったが、どこか焦点のずれたような異質さがあった。肌は、ちょうど芝居に使う面のようにつるりとして、年齢を読ませない。
長く垂れた紺とも黒ともつかない深い色の髪に縁取られて、その白さがことさら際立つ。余白のない黒々とした目が、はたりと瞬いたのを合図にして、アレイアはほっと息をついた。
「久しぶりね、クジラ。元気にしていた?」
身体を起こしながら聞けば、背に腕が回ってそれを助けられる。膝枕をされていたのだと知って、アレイアは頬に熱がのぼるのを感じた。赤い口腔を晒して、クジラが笑う。
──げんきだよ あなたは またうつくしくなった
波音に似た深い響きが、耳の底で鳴る。空気を揺らさぬ、それがクジラ──アレイアを呼んでやまない神の声だった。
「あなた、また少し大きくなった?」
──そうかな あなたは いつみても ちいさいね
「そりゃあ、あなたに比べればね。あなたみたいに大きいひと、国のどこにもいやしないわ」
──そういえば ちかごろ よく はらがすく おおきくなったせいかな
言って平たい腹を撫でるクジラは、ことりと首をかしげてみせた。大きな図体をしていながら、その様はまるで頑是無いこどものようだ。これが、掟の謳う神であると、アレイアは分かっていながらもまだ不思議な心地がする。
クジラに出会ったのは、アレイアが王位を継いだその年の二の月だった。長く病んだ父王が身罷り、喪に服す間もなくその月が訪れた。死の間際、父は枕元にアレイアを呼び、国中の誰もが知らない秘密を告げた。王だけが知る秘密。神は真におわすこと。二の月には、神に見えねばならぬこと。そして、神の正体を。
──ああ そうだ あなたに これを
アレイアのずぶ濡れの総身を眺めていたクジラが、乾いた布と衣服を寄越す。かわいらしい沓までそろっていた。これは、クジラと出会ってから、アレイアがその身をもって教え込んだことのひとつだった。濡れたままでは病を拾うことがある、とクジラが学んだのは、ずぶ濡れで連れ回したアレイアが高熱を発して倒れたときだろう。
人の身に頓着しないクジラは、しばしばそうした振る舞いをしたが、アレイアは根気よくそれに付き合ってきた。
アレイアは、ありがたく布を使い、その場で着替えた。その間中背を向けていたクジラは、向き直って破顔する。おそろい、と指された衣服は、なるほどクジラの身につけているものと同じ意匠で、アレイアの知る限り、南の民の纏うそれによく似ていた。水にさらしたように色褪せてはいるが、着心地のよいそれに包まれていると、自分が遠く離れたような心地がする。たっぷりとした布が揺れる裳裾と、広い袖。身を縛るものは、なにもない。
──さあ ゆこう あなたがくるのを ずっとまっていた
クジラに手を引かれて、アレイアは白い浜を歩いた。そこは、奇妙な場所だった。
ちょうど、海岸に現れる小さな島のようで、翠玉のような色をした海と砂のみがある。空に雲はなく、優しい水色がどこまでも広がっていた。風の穏やかさに、アレイアは戸惑った。これは、冬の風ではない。

「ねえ、クジラ。ここはどこ?」
──さあ どこだろう あなたのほしい こたえかたを ぼくはしらない
波打ち際を、クジラは進んだ。白い砂の中の、ところどころに隆起があった。その隆起を超す度、クジラはかいがいしくアレイアを抱き上げ、足元を気遣った。過ぎるときに積もった砂が落ちると、それは崩れた石組みのように見えた。
「どこへ行くの?」
──よいところだよ きっと あなたの きにいるところ
クジラの歩みは、遊山をするように緩やかで、時々何気ない場所で立ち止まった。
そのたび、砂の中から某かを拾い上げては、アレイアに差し出す。それは、歯の欠けた鼈甲の櫛であったり、一粒きりのガラス玉であったり、緑青の浮いた髪飾りであったりした。アレイアは、苦笑してひとつひとつそれを受け取った。幼い子が何でも母に見せるように、クジラは昔からその用途さえ知らぬものを拾っては、よくアレイアに贈る。今日はひどく、その数が多かった。
「ずいぶんたくさん落ちているのね。ここには人がいるのかしら」
──ひとはいないよ すこしまえから
「少し前?」
──ひとは みんな おかにゆく うみから はなれて
黒々とした瞳にひとしきりアレイアを映していたクジラは、ふと視線を外して、またひとつ砂から拾い上げたものをアレイアの手にのせた。
アレイアの片手が塞がりかけたころ、海がその姿を変え始めていた。凪いだ海面に、不規則に飛び出しているものがある。初めは岩礁のように思われたそれは、程なく数が増え、その全容を見せ始める。
「なに、あれは」
──あれが よいところ ほら おいで
アレイアの手を引いたまま、クジラは水に足を踏み入れる。ぬるい海水が足首をさらい、白い泡を僅かに立てた。遠浅の海を行きながら、今やアレイアの目には、岩礁などではないその正体がはっきりと見えていた。
「これは──」
倒れた石柱、崩れた壁、砂の下に確かに感じる硬さは石畳のそれか。透明な水に浸されたそこは王都近くの遺跡に似ていたが、それよりもずいぶんと新しい。
「──街?」
クジラは、四方に大きな柱の名残のある場所へ導くと、半ば呆然とするアレイアに向かって足元の水を跳ね上げてみせた。
──ほら ここのみずは あたたかいだろう
確かに、海水はぬるいと言うより熱を増していた。だが、そんなことはアレイアの脳裏にない。これは、この街の残骸は。
「・・・・・・どうして、クジラ」
──どうして? ああ そこから あついみずがわくのだそうだよ
「違うわ、そういうことじゃない!」
荒げた声と共に振り払われた手を、クジラはきょとんと見つめる。
「ここは、ここは南の街ね。あなた、また街を呑んだのね!」
南で海嘯があったと別れ際にオンハが言った、それがここなのだ。暖かな風も、晴れた空も、全てがアレイアの元いた場所から遠い証。穏やかなはずの波音が、にわかに増すようだった。クジラは、海嘯を呼ぶ。
「どうして、どうしてなの。私はあなたに言ったわ。どうかこれ以上、何も呑まないでって!」
クジラは小首をかしげる
──あなたは つめたいのは きらいだろう
いつかの折りにそう言っただろう、と言うクジラの声が遠かった。ではこれは、アレイアひとりのためにしたことなのか。湧き出す湯の、ただそれだけのために?
動けないアレイアの間近に、クジラが迫る。冷たい腕の中にアレイアを捕らえ、のしかかるように身をかがめて、額と額が合わさった。のけぞるような姿勢になって、アレイアは小さく呻く。潮の香りのする髪が頬に触れ、閉じ込められたような影のなか、黒いはずの瞳が光って見えた。
──あれいあ いとしい ぼくのはんしん えいえんのはんりょ ここは つめたくないだろう これで おかにかえらずに ぼくのところに いてくれる?