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アプリnovelnove交流による企画。

三題お題小説 伊月雨さん

レモン

「優しいね」
そうにっこりと笑うあの人の顔が、私は嫌いだった。あの人が私のことを優しいというたび、その言葉も嫌いになった。
優しいってなに?
何度も口に出そうとしてやめた疑問。優しいって難しい。それは結局、誰かにとって都合がよいということだから。
「わたしのこと好き?」
あの人が無造作に私を抱き寄せるものだから、なんとなしに尋ねてみる。
「もちろん」
あの人は私の嫌いな笑顔を向けていた。あの人がうまく笑えなくなったのはいつだっただろうか。私の記憶が正しければ、きっと二年ほど前だろう。そうだ、あの日からもう二年以上の月日がたったのだ。
「そろそろ行くね」
あの人はそう言って私を離した。体から引きはがされていく熱には、むせかえるような香水のにおいが残っていた。笑顔だけではなく、身にまとう香りすら変わってしまったのだ。
大好きだった香り。あの、夏を吸い込んだようなレモンの香りが、今はひどく恋しい。あの人は夏になると、私の腕を引いて離島のレモン畑へ連れて行ってくれた。あの人の知人が営んでいる小さな民宿に三日ほど泊まって、私たちは泥の中へ沈むように眠り、朝早く起きてレモン畑へとでかけていく。都会の喧騒とかけ離れた島に、あの家にあるような家具や街並みや利便性があるわけではないけれど、人にせかされず自然と共に生きている澄んだ空間は嫌いじゃなかった。
少し肌寒く薄靄のかかったあぜ道を歩きながら、何度指を折って数えただろう。
あと二日。あと一日。すぐに折り終えてしまう指をみていつも悲しくなった。わかっている。長くはいれないのだ、と。

「いってらっしゃい」
手を振った。私の手はあの人の手よりも遥かに小さい。夕ご飯を一緒に食べて、片づけを一緒に終えたらあの人は行ってしまう。私の小さな手ではどうすることもできない。ただ、いってらっしゃいと手を振ることぐらいしか。ノートを取り出して、今日中に済ませなければならない分をこなしていく。淡々と、小さな明かりの下で一人。ここでの生活が嫌なわけではないし、息苦しいわけでもない。以前に比べれば、ずいぶんと体調も良くなった。でも、それは私だけだ。
あの人にとっては、きっと地獄の続きのようなものに違いない。
ふと手を止めて、深く息を吸ってみた。鼻先をこれでもかと突き上げて、部屋中の空気をむ吸い込む。この小さなアパートには、大好きだったレモンの香りがない。古ぼけた民家の横にある、心ばかりのお土産屋。その店先の隅にちんまりと置かれたレモンの練り香水。私とあの人が好きだった香り。
私がもっとしっかりしていれば、私があの人を守ってあげられるほど強ければ、もう少し未来は変わっていたのだろうか。そう思っても、今の私にはどうすることもできない。なんだか悲しくなって、ノートの隙間を適当な文字で埋めてリュックにしまうと、タンスの引き出しから花柄の便箋を取り出した。白と黄色とピンクの花が散りばめられたお気に入りの便箋も、もうあと片手で数えるほどの枚数しか残っていない。
寝る前には必ず、この小さな長方形の中にあの人へ手紙を書くのが日課だった。今日はなにを書こうか。丸まった鉛筆の先をハサミで削って尖らせながら考える。
時々、チカチカと部屋の明かりが明滅を繰り返して心臓がひゅっと音を鳴らすけれど、これにももう慣れたことだ。それと同時に、私は今日の出来事を書こうと鉛筆を持ち直した。今日の出来事と言っても、他愛のないことばかりだ。夕ご飯の時、うまく会話を続けられず言いたいことの半分も言えない私は、こうして手紙にしないと気持ちを表現できない。
以前はこうではなかったのに。どんどん変わっていってしまった。言葉もあの人との関係も、思い出も、どんどん塗り替えられていく。
時計の針がカチカチと音を刻んで、そろそろ寝ないと起きれない時刻まで近づいていた。なんとか手紙を書き終えて丁寧に三つ折りにすると、それを机の引き出しの奥にある箱の中にしまった。そこには今まで書いてきた手紙が、一度も開かれることなく眠っている。
今日も渡せない。
何度も渡そうと思うけれど、結局お菓子の箱の中に隠してしまう。私はあの人に、自分の感情を知られるのが怖い。また同じことを繰り返してしまいそうで。
「今日はもう寝よう」
建付けの悪い窓の隙間から、冷えた空気が流れ込んでくるのが気になった。きっと今夜は冷え込むだろう。あの人は大丈夫だろうか。寒くはないのだろうか。なんとなしに窓を開けて空気を吸い込んでみる。その縁に腕を置き、はぁっと息を吐きだすと、白い吐息が黒く染まった空に滲んで雲のようだった。窓の額縁に描かれた空と星と電柱。この町は静かだ。電柱から電柱へと繋がった幾本もの電線も、屋根上の猫も、塗装の剥がれた車道も、薄明かりを放つ家屋も、まるで深海に眠る魚のように、深く静かに呼吸している。どれも好きだけど、丘の上にあるこの古びたアパートが、私は一番好きだ。あの人は嫌いだと言っていたけれど。
「おやすみなさい」
私もお魚のように眠ろう。目に焼き付けた窓に映る町並みの奥には、てらてらとにぎやかな光がこぼれていた。隣にあるあの燦爛とした街に今、あの人がいる。あの人は今日も働いている。この町は嫌いだというのに、本当に嫌なものは嫌だとも言えずに働いている。
それもすべて私のせいだ。
私が痛いと言ったから。私が怖いと言ったから。私が嫌だと言ったから。あの人は庇うように私を連れて逃げ出した。
夜の帳が下りていく中で、私は布団の中に身を丸めた。夜はいつも寒い。なにより、足先からじわじわと熱が奪われていく感覚が苦手だ。
あの人の足先も、きっと冷たいんだろうな。
私たちは同じはずのなのに、お互いの温め方すらわからない。あの頃はきっと知っていたはずなのに。
そんなことを考えながら、ぎゅっと目を瞑った。まぶたの裏がゆらゆらと闇を揺らして、私の意識も船を漕ぎ始める。この瞬間、毎日見る風景は、決まってレモン畑だった。
「ごめんなさい」
毎日、あの人が赤いリップを唇に塗るたびに悲しくなった。
薄くやわらかい桜色のほうが似合うのに、暗いところでは真っ赤にしないと顔が映えないと言っていた。だから、謝らずにはいられなかった。
「もう謝らなくていいのよ」
「だってわたしのせいなんでしょ」
「ううん、違うよ」
「私がパパのいうこと聞けなかったから」
「そうじゃない」

あの家を出てから、体は痛くなくなった。
でも、心が痛いのはなぜなのか。
補われては消えていく、この喪失感は何なのか。

「ごめんなさい」
私は夢の中でもあの人に謝り続けている。
そのたびに、あの人は私の頭をなでて笑った。
「まおは優しいね」


ねぇ、ママ。
優しいってなに。
私はなにもしていないのに。
なにもできていないのに。
いつ捨てられてもおかしくないのに。
私よりママのほうが優しいよ。
いつもありがとう。
うまくしゃべれなくてごめんね。
いつかちゃんと、お手紙じゃなくて言葉にするから。
朝、いつもよりも少し早く目が覚めた。外はまだ暗くて、なのに夜よりもずっと静かで、少し寂しかった。隣をみると、あの人はまだ帰っていなかった。
今日は帰りが遅くなる日なのかもしれない。
私は毛布にくるまりながら眠気眼に立ち上がり、冷蔵庫の野菜庫をあけた。冷蔵庫からあふれ出す冷気が指先を冷やすけれど、我慢して中を漁る。
「あった」
野菜の底に眠っていたそれを二つ、私は宝物のように手に収めて毛布にくるまった。頭もすっぽり隠して、手に隠していたそれをそっと鼻先に寄せてみる。
レモンの香り。少ししなびていて匂いも弱いからずっとしまっていたけれど、布団の中で嗅ぐといい香りが鼻の奥を抜けていった。
レモンの香りに包まれながら、あの人のことを考える。
まだ帰ってこないあの人のことを。
ひとりぼっちのあの人のことを。

もう、レモン畑のことも忘れてしまったのだろうか。
またいつか、二人であの島に逃げ出したいな。
朝摘みのレモンを齧って、すっぱいと顔をしかめれば、あの人もちゃんと笑えるかもしれない。
私は隣にひいていた冷たい布団と毛布の間に、片方のレモンをそっと入れた。

「おやすみなさい、ママ」